残照 第10回


森亜人《もり・あじん》



      第10章

 リラの白い花びらが、街路や公園にひらひらとこぼれる季節だった。

 ぼくはほぼ健康状態を保てるほどに快復していた。

 まりと旅をしていた。病院を退院してから一年八ヶ月も経た五月のことだった。

 病院を退院してからのぼくは機能訓練に専念していた。まりも画家として名が売れ出し、絵筆を握る時間が増す一方だった。それでも彼女は、ぼくのために時間を割くことに不平も言わず、歩行や握力を増すために手を貸してくれた。

 ぼく側から言わずにまり側から言えば、手を貸していたというより、諦めてしまいそうになるぼくを叱咤していたと言ったほうが正しいかもしれない。彼女の努力によって、ぼくは、外見的には普通の人と変わりないまでに快復した。

 伊達まり嬢を『まり』と呼ぶようになったのは、一つアパルトマンで暮らすようになったからではない。彼女と結婚することにしたからだ。しかし、恥辱にまみれたあの病は今もつづいている。そんなぼくが、健康あふれる彼女と結婚する気になった理由は、簡単に言えるものではない。

 ぼくは結婚することのできない理由を彼女に語る勇気がなかった。そこで、日記を彼女に見てもらうことによって、彼女に諦めてもらうことを考えたのだ。

 まりは窓のところに椅子を引き寄せ、明るい陽を浴びながらぼくの日記を読んでいた。

 日記を読んでもらおうとしているぼくにとって、五月のパリは眩しいほどだった。ぼくはベッドに横たわり、彼女の横顔を見つめていた。細い眉が憂いを含んだり、シャルマンな笑窪が可笑しみを耐えようと大きく波打ったりしていた。

 スカートのなかで重ねられた左足が上下したり、左右に揺すられたりしていたが、突然その動作が止まった。ぼくが枕に乗せていた頭を持ち上げたほど、それは突然の停止だった。ぼくは、彼女の足が再び動くことを願っていた。

―― どうして…。何のために…。 ――

 ぼくは何を恐れているのだ。彼女に日記を見てもらう理由は何であったのか。まりは日記のどこで足を止めたのだろうか。ページをめくろうとして、右の人差指が宙に立てられている。

 左足が調子を取るようにまた動きはじめた。

 止められた足が再び動いてくれれば、と思っていたくせに、いざ動きはじめると、ぼくはほっとするより返って不安を覚えた。

 どのくらい読み進んだときだろう。まりは口笛をぴゅうっと吹いて立ち上がった。午後の陽を背にし、立像のように動こうともしないでぼくの顔を見つめていた。

「奥村さんありがとう。まりもあなたに告白しなければなりませんわ。だって、あなたは、わたしのことを清純な女と思っていらっしゃるみたいなんですもの。わたし、そんなあなたと平気な顔をして一つ屋根の下にいたくありませんの。ですから、あなたがわたしに示してくださったように、わたしの日記を見て欲しいの。きっと軽蔑するでしょう。でも、長いこと軽蔑しないでいただきたいの」

 ぼくは彼女の真剣な眼差しに押されそうだった。この表情、この声。そうだ、あれはモンマルトルの石段を降りながら話していたときの表情だ。まぶしい夏の日をハンカチで遮りながら神の話をしていたときだ。

 中空に突き立つように聳えているサクレクール大聖堂の鐘楼を見上げながら語った大自然の話。あのときと同じ表情をし、同じ声をしている。彼女は、ぼくの日記から何を読み取ったというのだろうか。窓を背にしているので、彼女の瞳がどんな色をしているかわからなかったが、眉の動きで、しっかりぼくを見つめていることは読み取れた。

 ぼくの日記から読み取ってもらうものは何もないはずだ。いや、彼女は、言った。きっと軽蔑するでしょう、と。軽蔑されても仕方ないのはぼくの悔恨の過去だ。飯窪のり子という名の男に、すっかり翻弄された情けない男の姿のほうだ。

 もし、ぼくに軽蔑されるようなことが彼女にあったとしたら、ぼくは幸せだ。ぼく以上の愚行はないはずだ。彼女は、ぼくがそのことで口を開こうとする前に、身を翻して隣室へ飛び込んでいった。

 日記を取りにいったはずの彼女は、十数分しても戻ってこなかった。見せると言ったものの、彼女のことだ。手に取った途端、いやになったのかもしれない。

 たとえ、彼女が心を翻したとしてもぼくに抗議する権利はない。むしろ、ばかばかしくなって画布に向かっているのなら、なおのこと結構なことだ。ただ、このアパルトマンを出ていく日が早まるということだけだ。

 ぼくは目を閉じて、忘れようとしてもなかなか忘れきれない飯窪のり子との疎ましい関係を苦々しく思い出しているうちに、伊達まり嬢に、自分の恥部を曝露したことの安堵感からか、いつの間にか眠ってしまったらしい。

 人の気配で目覚めたものの、自分がどこにいて何をしていたか思い出すまでにしばらく時間があった。その夢とも現実ともつかない時の流れのなかで、ぼくの心をしっかり捕らえてしまったクリスチャンディオールの香りが香っていた。

 ぼくは香りを追うように顔を動かし、はっきり目を覚ました。

 まりがそこに立っていた。赤く泣きはらした目だったが、落ち着いた精神をやどしているような光が感じられた。

「遅くなって御免なさい。ちょっと顔を直していたものですから。これですの。どうぞ読んでください」

 日記帳の表紙いっぱいに、少女が笑っている。形のいい拳に小鳥がとまり、白い器から餌を啄んでいる絵だった。ぼくは心に差してくる不安を紛らすように

「可愛い絵だね」

 と、殊更陽気な声で言った。

 日記を受け取ったものの、開く勇気がなかった。だから、いつまでも表紙の少女のつぶらな瞳に救いを求めて見入っていた。

 まりは窓際に立って外を見ている。なかを見ないで返そうかとも思ったが、こちらに向けた彼女の背に、ぼくを励ます強い意思のようなものを感じてしまうと、そうもできないでいた。

 永い時間のようにも思え、つかの間にも感じる半時だった。整然と並んでいる文字から、窓際に立って外を見ているまりに目を移した。彼女の日記帳に食い込んでしまうほど神経を紙面に注いでいたためだろうか、たいして離れてもいない彼女が巨大な立像のように見えた。

 まりの過去を知ったぼくは彼女を不潔な女と思うより、生身の人間が放つ生き生きとした血の匂いを感じた。そこへいくと、ぼくの過去の経験は、嘔吐をもよおすほどの悪臭に満ち満ちているとしかいえない。男女の区別もつかないような男に、正常な女を愛する資格はない。まして、不能者であればなおのことだ。

 まりの日記を読んでからのぼくは、頭で彼女との結婚を否定し、心では二人の生活を描いていた。この相反する思いがあるかぎり、平常心で日々を過ごすことはできない。そのため、二人のあいだで小さな火花を散らすこともあった。

 彼女なりに耐え、それでも糸がぷっつり切れたときには

「そんなに意地を張るのならわたしが出てゆきます」

 と言って、アパルトマンを飛び出していくのだ。もちろん、反対のときもあった。

 夜が更けるまで居酒屋の隅で飲めもしない酒をむりやり喉に流し込み、町の角に立つ娼婦に罵声を浴びせられ、いく宛もなく、重い足を引きずってアパルトマンへ戻っていく。どうせ彼女も怒って眠っていると思い、ポケットから鍵を出していると、なかからいきなりドアが開かれ

「隆夫さん、どこで飲んでたの! わたし、どれだけ心配して町中を捜し回ったかおわかりになって?」

 と言って、ぼくの胸に顔を埋めて泣き出すシーンも何回あっただろうか…。

 ぼくは、二人が愛し合っていることを、体の芯まで染み込むほどひしひしと感じていた。しかし、過去の愚行の呪縛に捕らわれ、目に見えないクモの糸の絡まりに、独りもがいていた。

 まりを抱き締め、濡れた頬や首筋に熱い唇を這わせるとき、ぼくは不能者ではなかった。しかし、互いに燃える肌を求め合うと、たちまち呪縛のために不能者に変身してしまうのだ。これこそ、飯窪のり子が持っていた男を呪縛する魔力でなくて何であろう。

 そんなとき、まりの優しさがぼくを哀れな男にさせた。彼女の愛は救いであり、反面、ぼくを羞恥に追い込む要因でもあった。そのぼくがまりと結婚しようと決意したのは、旅行の目的地でのことだった。

 旅行を計画したのは 無論、まりだった。

 旅行に出発した日から三週間ほど前の日だった。

 ぼくは二人でモンマルトルの大聖堂につづく長い石段を上った日のことをふと思い出しているうちに、そこへいってみたくなり、彼女を誘って出かけていった。

 ぼくは石段の下から鐘楼を見上げ、大聖堂の壮麗さに改めて驚嘆していた。まりも感懐の目を上げていた。しばらく二人は黙って立っていた。

 ぼくの脇に腕を通し、軽く身を預けていたまりが、ふっとつめていた息を吐くと

「ねぇ、隆夫さん、バルムにいきましょうよ」

 と、瞳を輝かせて言った。

「バルムにかい?」

「そうよ。あなたの病気もこんなに良くなったでしょ。ですから、フリマー先生や、看護婦のマダム シュヴァリエに見せながら、わたしを洞窟へ連れてって欲しいの。無理かしら? ね、いいでしょ」

 ぼくは賛成した。洞窟そのものより健康になった体で、あの周辺の自然界の気息を肺のなかに吸い込み、自分が生きているという確信を味わってみたかった。

 近ごろ、ぼくは生活のほとんどをまりの筆から得る収入で養ってもらっているような状態だった。そこで、カンシューの病院に入院していたときに行なったように、東京のS銀行から送金してもらった。あのときより数倍の金額だったので、先方の銀行員からずいぶんうるさく聞かれたが、預金者の希望であることと、病状を話して納得してもらった。

 ぼくは、送られてきた金のなかからトレーラー・ハウスを買うことにしていた。中古車だったが、まりの気に入るように早速内装し直し、四月末に、ブール ミッシュのアパルトマンの駐車場へ運んできた。

 それほど広くないが、寝室はもちろん、キッチンや、シャワーまで備えられ、その上、トイレも完備していた。ぼくは、まりを乗せて世界中を旅をしてみたいと思った。

 一昨年の八月には、ぼくもまりも絶望の帰路だった。ぼくは後部座席に横たわったままだったし、まりは、カンシューの病院の事務員の運転する横で、やはり押し黙ったまま前方を見つめているばかりだった。

 だが、今回は違っていた。饒舌と笑いを振り撒きながら逆行していった。途中、まりの希望で、ディジョンに寄り道した。そこは、まりが幼かったころ、両親と彼女の兄たちと暮らした町でもあったのだ。

 まりの父親は大学で日本学科の教授をしていたという。まりは小学三年生までディジョンにいたお蔭で、フランス語には精通していたのだ。

 兄たちの教育のこともあって、父親はフランスに残り、まりたちは母親とともに帰国して育ったのだという。

 これは、まりが大人になってから知ったことだが、兄たちにせよ、まりにせよ、ディジョン大学の学生たちに可愛がられたのは大いによかったが、どうも言葉の上で悪い言葉をそれとなく教えられてしまったらしく、何もわからないまりたちは、親が赤面するようなことを臆面もなくしゃべっていたらしい。

 そんなこんなで、両親は相談した上で、子どもたちをひと足先に帰国させることにしたようだった。帰国したあとも、まりはフランス語を忘れないためにミッション系の学校へ進み、現在に至っているのだという。

 まりと初めて会ったとき、若いのにずいぶんフランス語に精通しているものだと感心したものだが、生い立ちを聞いて納得したことをよく覚えている。

 ものの行き違いから、興奮したまりが思わず口をすべらしたフランス語に、幼いころを忍ばせる言葉が飛び出すことがあって、ぼくは、どうしてそんな言葉を知っているのかと聞いたことがあり、そのときに生い立ちを聞かせてもらったのだった。

 バルムまでなら一日の行程だったが、急ぐ旅でもないので、ぼくたちは途中で高速を降りて山のなかにエンジンを止めた。ここからはバルムまで二百キロもない地点だった。

 ぼくは、今まで味わったこともないような、一種独特の雰囲気のなかに浸っていた。パリのアパルトマンでは、決して味わえない空気のなかで、ぼくは呼吸していた。

 トレーラー・ハウスの寝室には、まりが飾ってくれた花が香っていたし、窓におろしたカーテンは、彼女の手で染めた水墨画の竹林。これは、ぼくの心を和ませてくれるに充分の出来映えだった。

 その夜、ぼくは不能者ではなかった。

 月光が森を照らしている。月光がバスを包んでいる。窓に掛けられた薄手のカーテンを外からやんわりと押している。昼間はソファー、夜にはベッドに早代わりする床にぼくもまりも横たわり、互いの目に映るほほ笑みを見つめていた。

 飯窪のり子と接したのも月光の下だった。ぼくは、月の光を見ると必ず飯窪のり子を思い出し、男としての恥辱で身も心も萎えてしまっていた。そのぼくが不思議にも萎えずにまりと向かい合うことができたのだ。

 ぼくは、いつもまりの体を抱く度に襲ってくる飯窪のり子とのおぞましい行為の幻影に怯えてきた。中学、高校、大学の学生時代にまるきり女に興味がなかったわけではない。ただ、中学生のときに興味を覚えた考古学に心が向いていただけだ。

 そのぼくが初めて恋心を抱いた女が男だったのだ。自分でも気づかないうちに、まりは、ぼくの心から飯窪のり子の呪縛を解きつつあったらしい。

 今も、場所も環境もまるで違う異郷だが、照らす月光はあのときと変わらない。ぼくは克服した。まりによって飯窪のり子からの呪縛を解くことができたのだ。

 まりは、ぼくの腕のなかで喜悦に震えていた、次から次へとくり出す彼女の繊細な痙攣に、ぼくは初めて男としての官能に充足感を味わった。男と女の交接がもたらす余韻を知ったのだ。

 青白い月光が木々の枝葉を通して幾何学模様をトレーラー・ハウスの窓に作った。その紋様がまりの愛と絡み合ってぼくを助けてくれた翌日、ぼくは車を転がしてバルムに向かった。

 ドクトゥール フリマーやマダム シュヴァリエがどれほどの思いでぼくたちを迎えてくれたか、ぼくのペンの力では言い表わすことは不可能だ。

 ナースセンターへ入っていったぼくたち二人を見て、マダム シュヴァリエなどは、両手を広げ、その勢いを利用してまりを固く抱き締め、接吻の雨を降らせたのち、ぼくまでも抱き締めてくれた。

 月が昨夜と同じように皓々と照っていた。

 バスに戻った二人は、月光に照らし出された周囲の風景に見とれていた。今宵のまりは、パリに着いた翌日、モンマルトルからの電車のなかで、ぼくを破廉恥な思いに追いやったクリスチャンディオールの香りをしとやかにまとっていた。

 ぼくは静かな心でその香りを楽しんでいた。まりは窓を透かして差し込む月光に今まで見たことのない秀麗さで咲き誇っていた。

 まりは上半身をぼくの胸に預けていた。飯窪のり子に見た妖婉さは、まりの横顔を見ているうちに、はっきり狐狸妖怪の類に思え、ぼくは思わず身を震わせてしまった。

 時を同じくして、一つの願望が心の底から湧き上がり、寸分も待ちきれないほどの激しさで、ぼくの舌を動かした。

「まり」

「なぁに?」

「大変じゃないのかい?」

「あなたとなら」

「本当かい」

「もちろんよ。それよりわたしのことお荷物じゃないかしら?」

「ちっとも。ねぇ、まり…」

「なぁに…」

 ぼくは言い渋った。やはり気がかりだった。きのう・きょうとぼくは自由だった。しかし、あのことは今もぼくを呪縛しているのだ。

「かたわかもしれないんだよ」

 まりは両手をさっと伸ばすと、ぼくの首を彼女の胸に引き寄せた。彼女の黒髪がぼくの顔を埋めた。

「思わなくってよ。そんなことで悩んでいたの? 今のまりは昔のまりと違うわ」

 まりの笑窪が月光のなかで輪を作っていた。ぼくは彼女の手をそっと外し、今度は、ぼくがまりを抱き締めた。そうして、ゆっくりと丸い輪のなかに一字ずつ書いていった。

『Je t'aime et toi?』

 まりは、途中からぼくが書くのと同時に

「ジュ テーム エ トワ」

 と読んでいた。

 まりは、月光が醸し出す陰影の濃い夜景に目を凝らしてから、興奮を鎮めるように大きく息を吸い込み、ぼくの顔をしっかり見て言った。

「隆夫さん、不純なわたしを洗ってください。あなたの傍に置いてください。そうしてもらえれば、わたしの心身が洗われるのです。あなたの妻になれる資格なんかありません。日記にも書いてあったような女です。そんなわたしでも受け入れてくださるとおっしゃるのなら、ただお側に沿わせてください」

 彼女の声は月光を弾き返すビロードの布のようでもあるし、眠っている池の水面のようでもあった。だが、ぼくを見つめる瞳は藍色に燃えていた。


 いまは、誰もいないローマのアパルトマンに独りで異郷の孤独を噛み締めている。この日記の最初に

『いまは独りで暮らしている。いま独りで暮らしていると言ったのは、三ヵ月前までは二人で暮らしていた、ということだ。』と書き記したことを覚えていてくれるだろうか。

 まりとの生活をたどっていたら君を退屈させるだけだろう。だから、重要なことに話を飛ばすことにする。

 もちろん、ぼくたちはクレミウの洞窟を巡った。激しい雷雨で黄泉の国に落とされそうになった林のなかにもまりを伴ったことはいうまでもないことだ。





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