残照 第11回


森亜人《もり・あじん》



      第11章

 結婚式はカンシューの教会で行ない、ドクトゥール フリマーとマダム シュヴァリエの立ち会いのもとで厳粛のうちに進められた。

 一ヶ月半に及ぶ蜜月旅行も無事に済ませ、その年の秋から、思いつづけてきた計画を果たすために、ぼくは再出発した。

 計画とは、ヴァカンスが終わった十月に、新考古学研究所へ入所することだった。

 お国柄と言ってしまうとフランス人に叱られるかもしれないが、どこか閉鎖的な面のある研究所だったが、日本を出発する前に教授から紹介状をもらってきたことが大成功で、同時に入所したインドの若い研究者より好意的に扱ってもらえたのは嬉しいと言ってもいいのだろうが…。

 ぼくはモレーンの丘に興味を持っていた。ほとんど研究しつくされた分野だが、日本にいては知ることのできない事柄も幾つかあった。調査隊の一員に加えてもらい、フランスはもとより、ドイツまで足を伸ばしてみたかったのだ。

 計画どおり新考古学研究所へ入れてもらったぼくは、スカンジナヴィア半島への地質調査の長期旅行を初め、前後九回も旅に出たことになる。まりは、スカンジナヴィア半島の調査のときから同行するようになっていた。理由は簡単だ。パリで待っていることに耐えられなくなっただけのことだった。

 まりは、ぼくが他の研究員と共にモレーンの成分の分析をしているあいだ、周辺の森や沼を訪ね、デッサンをしていた。

 作業は酷暑のときもあったし、反対に、厳寒の荒野でのこともあった。しかし、好きなことは苦労を苦労と感じないでやれるものらしい。ぼくは好きが故に、自分の身を病魔が蝕んでいることにも気づかないでいた。

 最後となる ―― 実際は本意ではないが ―― 地質調査にドイツのモレーンを調べに出かけていった。まりは展覧会への出品を製作中だったことと、今回の調査は短期間だったこともあって、一人パリに残った。

 晩秋だった。日本にいれば、吸い込まれてしまうような晴天がつづく季節だが、ここでは青空を見ることはできない。くる日もくる日も灰色の雲が低く垂れ込めていた。

 三週間の予定で始められたモレーンの調査も一週間を過ぎるころからついに雨になり、やがて二週間めに入ったころから雪も混じるようになった。

 四日ほど前から、ぼくは左胸部に鈍痛を訴えるようになっていた。調査隊は降りつづくみぞれのなかで作業を続行していた。三週間の仕事を出来るだけ短縮しようと、誰もが懸命に土を掘り返した。

 北からの寒風に押されるように白いものが強くなりはじめた午後のことだった。ぼくは左の胸を押さえたまま、発掘中の穴に転がり込んでしまった。同僚たちは突然の出来事に仰天し、ぼくを穴から救い出すと、近くといっても十数キロも離れている村の医院まで運んでいってくれた。

 診察を終えた医師は、渋い顔を更に渋くさせ、少し落ち着いたぼくの顔を覗き込んで

「今後、二度といまのような作業は出来ない。家のなかで静かにしているなら生き延びられるはずだ」

 通訳というクッションがあったにせよ、医者の言葉は大いにぼくを打ちのめした。自分の体を心配したのではない。朝を迎える度に、カレンダーの日付をいろいろな色で塗り潰しているまりのことを思ったからだ。

 病名は心臓弁膜症と大動脈瘤だった。医者は礼を言うぼくの目を覗き込むようにして

「あなたには宗教があるかね」

 とたずねた。

 ぼくは、医者の言葉の裏面を即座に理解した。『ノン』と言えば、彼は何も言わないだろう。だからぼくは躊躇しないで

「はい、持っています」

 と応えた。

 白髪の老医師は、しばらくぼくの目を覗き込んだまま思案している様子だったが、重い口を開くと

「正直に言いましょう。手術は不可能です。薬剤の投与もたいして効果は期待できません。あなたが守らなければならないことといえば、家のなかで静かに本を読んで暮らすことです。それができれば、数年の命は保証できますがね…」

 医師の言った最後の言葉には、どことなく、ぼくが家のなかでの生活をつづけていけないだろうと承知している節が感じられた。

 漠然としたものだったが、この病院へ運ばれてきたときから、死に繋がることを言われるような予感がしていた。

 白髪の頭を重そうに持ち上げ、ぼくの目をじっと捕らえて、殊更にゆっくり話す老医師の自信に満ちた言葉には、死を宣告する冷たさは感じられなかった。人生の経験者が若さにものをいわせて無鉄砲な行動に走るのを戒めているような優しさがあった。だから

「家のなかで静かに本を読んで暮らすことです。それができれば、数年の命は保証できますがね…」

 という言葉になったのだろう。

 ぼくは深々と頭を下げ、医師に書いてもらった処方箋を受け取った。手のひらに受け取った処方箋が、絶えられないほど重く感じられた。

 ぼくは灰色の空より暗い思いを秘めたまま、医院で通訳をしてくれた研究員に付き添われてパリに戻ってきた。

―― この結果は何があってもまりに言ってはいけない。 ――

 帰りの列車のなかで、ぼくは取りとめもなくそのことばかりを考えていた。自分が不幸だとか、付いていないなどとは感じなかったが、これ以上、彼女を悲しませたくない。車窓の外、荒涼とした灰色の空の彼方に、絵筆を握っているまりの横顔が見える。


 ちらちらと車窓を掠めていく雪片の密度が増していく。轟音とともに建物を揺さぶった上越の宿の光景が隙間なく降り積もっていく雪を割ってぼくの視野いっぱいに広がってきた。

 あのときも決して悲しくなかったとは言わない。だが、老医師の角張った顔に、数年の寿命と言われ、アパルトマンでぼくの帰りを待っているまりの顔を思うにつけ、列車の窓を流れていく景色と同じようなものが、鼻の奥にじわあと込みあげてくる寒々しさに心を凍らせていた。

 心に鬱屈した状態のままで帰れば、敏感なまりのこと、納得するまでぼくを質問ぜめにするだろう。涙を浮かべ、ぼくの両の頬に手を押し当てて聞き質すだろう。きらきらする瞳で見つめられたら、たぶん、ぼくは負けてしまうに決まっている。きっと正直に話してしまうだろう。

 ぼくは思い悩んだ末、風邪を引いたことに決めた。バルムのときのように、無理をして取り返しのつかない結果を生じてはいけないと思い、予定より早く帰ってきたと、彼女に説明することにした。そのことを同行してくれた研究員にも了解してもらった。

 初め、同僚は良い返事をしてくれなかった。

「ムッシュ奥村、そんな大切なことは奥さんにきちんと言わなければいけない。それが夫婦の愛というものじゃないのかなぁ」

 と、車窓を後方へ去っていく雪景色を見ながら言ったものだ。

 だが、ぼくは強行に言い張った。妻は芸術家で通人の女性とは違い、かなり神経質だから、錯乱して絵筆を握れなくなるかもしれない。そんなことになってからでは遅い。言うべきときを見計らってきちんと説明するから、今回だけはぼくの言うとおりにしてくれるように頼み込んだ。

 それでやっと彼も納得してくれた。そして

「君の奥さんは絵描きですか。それならなんとなく理解できますよ。親戚に絵描きではないが、かなり偏屈な詩人がいましてね。親戚では誰も口を利かないのに、なぜかその世界では名を知られている女がいるんですよ」

 と、彼はぼくの顔をまじまじと見つめ、少し同情したようにそう言ったのだ。

 パリも灰色の雲が低く垂れ込めていた。見慣れたアパルトマンの入口を入り、三階まで階段を上っていくと、胸部に痛みを感じたので、研究員の肩を借りてしばらく踊り場で休んでから部屋のドアに手を掛けた。

 まりは、ぼくがドアを開けて入っていくなり、ぼくの首に腕を絡めた。早い帰宅が嬉しかったのだろう。ぼくの具合の悪いことには気づいていないようだった。こんなに喜んでくれるなら、列車のなかであれほど悩まなくてもよかったと、杞憂に終わった心配を内心で大いに喜んだ。

 アパルトマンまで送ってくれた同僚を引き止め、モレーンに含まれている土石と、北欧のそれとの比較を、さもここへ着くまで元気よく話していたかのように振る舞った。

 元気のいいところをまりに見せることで、彼女の心に浮かぶかもしれない危惧を払おうとしたのだ。同僚も気を配りながら、ぼくとの会話を楽しんでいるようにみせてくれた。

 まりは温かいコーヒーを用意してくれた。同僚は、久しぶりの本格的なコーヒーの味に満足してくれ、まりの心のこもった歓迎にフランス人らしい大袈裟なジェスチュアを交えて礼を言ったり、彼女の美しさを羨ましそうな口調で言ってもみせてくれた。

 ぼくも彼女の入れてくれるコーヒーが好きで、日に何杯も飲んでいた。だから、今も何のためらいもなく口へ持っていくと、同僚がもったいぶったような咳払いをしてみせた。

 ぼくは、柔和な老医師から噛んで含めるように

「これからは強い精神力をもって生きていかなければならないですよ」

 と言われたことを思い出し、慌ててカップを元へ戻した。そうして、何げない会話を交わしながら、横目でまりの様子を窺った。

 まりはソファに座って編みかけのセーターの目を数えているらしく、編棒に絡めた毛糸の上を指が順々に動いていた。

 同僚は三十分ほどいて帰っていった。まりは通りまで彼を送りながら、夕食の惣菜を買いに出かけた。

 ぼくは、無事に戻ってこられたことと、まりに気づかれなかった安心感からか、一度に疲れを覚え、まりの座っていたソファに身を投げ出し、久しぶりにまりの香りを心ゆくまで楽しんでいた。

 ぼくは彼女の帰りを待っているうちに眠ってしまったらしく、まりの出し抜けの声で目を覚ました。

「眠っていたの? ごめんなさいね。隆夫さん、あなたはどこか具合が悪いのね。それで早く戻ってきたのでしょ?」

「あぁ、ちょっと風邪を引いたものだから」

 ぼくは、彼女が同僚の口を割らせたのかと逡巡したが、彼のいかつい顔を思い出すと、すぐに疑いを打ち消した。

「そんなことくらいで帰ってくるあなたじゃないわ。それに、付き添ってもらわなければいけないほど重い風邪だったの?」

「高熱だったんだ。バルムの二の舞を踏みたくなかったからね」

 この言葉には説得力があった。さすがのまりも小さく、

「うっ」

 と言ったきり黙ってしまった。胸の前に組み合わせた指に力が入っている。何かをけんめいに考えているときのポーズだ。ぼくの顔と、窓の外に広がる寒々しい空とを見比べていたが、ぼくを問いつめる言葉を捜していたらしく

「それでコーヒーを飲もうとして途中でやめたの?」

 と言って、一歩ぼくに近づいた。

 今度はぼくが喉を詰まらせてしまった。まりの顔から笑窪が消えていた。目に涙まで浮かべている。

―― これだけは見ちゃいけない。まりの涙だけは見てはいけないのだ。 ――

 その思いがあったので、ぼくは焦ってしまった。伏せた視線の先にローヒールの靴が見える。すっぽり入っている細い足が震えている。ぼくに飛びついてきたい衝動を制しているのが手に取るようにわかる。ぼくは胸苦しさのために目を閉じてしまった。

 その場は何とか切り抜けられた。とにかく事実だけは彼女の耳に入れずに済ますことができた。『バルムの二の舞』という言葉を武器にして、まりの追求を逃れることができた。

 しかし、彼女は、決して諦めたわけではない。その後もぼくの動向を冷めた目で見ていた。そんな彼女の視線に気づいたときのぼくは、病気とは違う胸の痛みを、その度に覚えたものだった。

 四六時中、まりに監視されていれば、いつかどこかで失敗するものだ。

 年も明けた一月の半ばだった。二人は昼食を取りながら、サン ジェルマン大聖堂の周辺を散歩しようと出かけることにした。

 誰もが厚い毛皮のコートを着る厳寒だった。ぼくは、老医師に処方してもらった薬を、こちらの薬局で調合してもらっていた。それをポケットに忍ばせてドアに向かった。

「隆夫さんちょっと待って…。いまあなたは何を隠したの。薬の瓶じゃなくって?」

「あぁ。例の風邪の薬さ」

「風邪薬ですって!」

 まりの目が、ぼくの行動の全てを阻止するように強く光った。手が伸びてきたかと思うと、ぼくのコートのポケットに滑り込んだ。ぼくは、彼女が瓶に触れる前に身を引き、彼女の手を上から押さえた。

「出してちょうだい」

 言い方は優しかったが、ぼくに異論を差しはさむことを許さないものだった。ぼくは観念し、ポケットから薬の瓶を取り出した。

 まりは瓶に貼られたラベルの文字と、棚から取り出した辞書を見比べていた。どんな気持で読んでいるのだろう。二人は、丸いテーブルを挟んで黙って立っていた。

 横殴りの雪が吹きつける荒野で倒れ、医者のところへ運ばれている途中、ずっと考えていたこと。この事実だけは彼女に知られてはいけない。ただそれだけを願いながらパリへ戻り、今日まできた。

 それが今、自分のちょっとした不注意から崩れようとしている。まりはどんな思いで、この事実を受けとめているのだろうか。


 まりの表情は、志野焼の白磁の壷を思わせるほど静かだった。心の底にどれほどの悔しさをたたえているか想像もつかない。テーブルの端を掴んでいる手が震えている。もしかしたら、瓶をぼくに投げつけるかもしれない。それとも、窓から捨てるかもしれない。

 長い沈黙がつづいた。これ以上、ぼくが黙っていたら、まりは気を失ってしまうように思え、全てを語ろうと、彼女の傍らへ近づいていった。

「寄らないで!」

 まりは叫んだ。喉が張り裂けるような声だった。彼女は、自分の発した声の鋭さに驚いて顔を上げ、困惑しきって悄然と立ちつくしているぼくを見て、慌てて辞書に視線を落とした。そうして、辞書に示された言葉の意味に身を震わせ

「ごめんなさい。落ち着くまで待ってちょうだい。いまは何を聞いても耳に入らないわ」

 と言って、コートの襟を立ててベランダに出ていった。


 パリに何回めかの春が戻り、公園や大通りに花を見るようになった。まりの描く風景画は、パリ在住の画家たちのあいだでも高い評価を得るようになっていた。

 彼女が本格的に絵を学ぼうとパリへやってきたころは、どちらかといえば抽象的画風のものを手がけていたようだった。その彼女の感覚を風景画に転換させたのは、彼女に言わせると、このぼくらしい。

 しかし、彼女の画風を変えた原因は、彼女自身が根本的に持っている彼女の自然に対する美意識に、自然の前で、童子のように手足をばたつかせてばかりいる大男のぼくの人間の弱さが刺激になったとも考えられそうな気もする。

 まりのアパルトマンに同居するようになったころだったろうか。彼女が筆を動かす傍らで、ぼくは彼女の絵を見ながら、自然が造り出す色調の微妙さについて問わず語っていたものだった。 

 一心不乱に筆を運んでいる彼女は、ぼくの話を聞いているのか、キャンバスに向かったまま、ぼくの話に対し、何の反応も示さなかった。だが、ときには完成間近の絵を床に叩きつけ

「あなたに指導される必要なんかないわよ。わたしの仕事の邪魔をしないでよ!」

 と叫び出すこともあった。

 そんなときなど、ぼくは黙って部屋を出てゆき、ベランダの籐椅子に座って、ときどき刻々と色を変えていくパリの町の景色を見たり、地質学の本を読んだりして、彼女の落ち着くのを待ったものだ。

 絵に関すること以外の彼女は、ぼくが言うのもおかしいが、この上もなく素晴らしい伴侶だ。だが、こと絵なると人が変わってしまう。これこそ芸術家の真骨頂なのだろう。

 そのへんのところは、凡人のぼくには理解できないところでもある。まぁ、それだから一つ屋根の下にいられるのかもしれないのだが。

 ぼくがベランダに置かれた椅子に座って明るい空を眺めているあいだ、彼女はアトリエで絵筆を震っているはずだ。

 しかし、ぼくがいつまでもベランダから室内へ戻らないと、時を経ず、まりは絵筆を放り出して、ぼくのいるベランダへ飛んでくる。そうして、涙を浮かべて謝る。こんな日々がずっとつづいているうちに、彼女の画風が変わっていったのだ。

 年を経るごとに、彼女の描く絵のなかから、人物の占有する部分が少しずつ減り、自然の色彩から生ずるところの微妙な美しさが強調されるようになっていった。

 新しい絵を描くためには多くを見聞きしなければいけないはずだ。彼女にとって、いつ発作を起こして倒れるかわからない病人と暮らしていることは、耐え難い忍従ではなかったろうか。多くをスケッチし、色彩のコントラストを工夫するにも都会だけにいたら、持っているものまで失うことになりかねない。

 ぼくは、灰色の空が次第に青く高くなっていくパリの空を窓の内から見上げながら、一つのことを決心していた。

 老医師が信念を持って宣言した猶予年数を、ぼくは三年間と考えていた。残すところ一年に迫っている。まりの手元に残っている蜜月旅行中のスケッチも乏しくなり、モン サン ミッシェルの風景や、ロワール河周辺のスケッチも全て一枚の絵に完成していた。残っているのは、リュクサンブール公園や、ランド地方の荒野くらいなものだった。





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