残照 第6回


森亜人《もり・あじん》



      第6章

    某年 七月 某日

 今、わたしは、奥村さんの苦しそうな呼吸を聞きながら日記を書いています。この日が、わたしの人生に与えたものは偉大でした。

 今朝まで、わたしは、アパルトマンの一室で、奥村さんの肖像画のデッサンを試みていました。

 突然電話のベルが鳴りました。わたしは、精神を張りつめてイーゼルの前に立っていました。奥村さんの表情に納得がいかないので、わたしは、かなり苛立っていたと思います。乱暴に受話器を取り上げました。すると、おちついた女性の声で

「失礼ですが、あなたはマドモアゼル伊達でしょうか」

 と言ったのです。

 わたしは、不機嫌をそのまま相手にぶつけたのでしょう。

「だれ?」

 と聞くと、先方はフランス語が通じたことにほっとしたらしく、今度はフランス人らしい流暢な話し方で、わたしが既のところで気を失ってしまうようなことを平気で言ったのです。

「ムッシュ奥村は危篤です。すぐカンシューの病院へ来てください」

 わたしは、遠くの人にでも言うように

「そんなぁ!」

 と叫んでいました。だって、三日前の午後の列車に乗るまでは、あれほど勇んでいらっしたのに…。わたしは、先方の女性に、もう一度

「そんなぁ!」

 と叫んでいました。

 電話の女性は自分の言葉が、わたしにとってあまりにも不用意であったことに気づいて

「おぉ! マドモアゼル。少し言いすぎました。それほどでもありません。どうぞ早くおいでください」

 と、その場かぎりの慰めを言いました。

 わたしの目の前は、わたしが動転してしまうほどの勢いでくるくる回ったかと思うと、取り散らかされた室内は、夏の太陽が窓いっぱい輝いているにもかかわらず、急に暗くなってしまいました。

 しばらくの間だと思います。わたしは、電話の置かれたテーブルに掴まって、やっと立っていました。先方が何を言い、わたしが何と応じたのか覚えていません。それだけ取り乱していたのでしょう。

 やっと、われに返ったときは、受話器を元に戻し、生活の全てが散らかっている室内を見まわして、自然に体が動いていました。

 男の人の目にあまり触れさせたくない品々をベッドの下へ押し込むと、手回り品を持ってアパルトマンを飛び出し、リヨン駅へ飛びつけ、奥村さんの足跡を追ったのです。

 奥村さんの病室を担当している看護婦さんの話ですと、激しい嵐の通り過ぎたあと、林を巡回していた村人が、テントの外に倒れている彼に気づいて救い出したんだそうです。

 カンシューいったいを猛烈な雷雨が襲い、林のなかでも、あちらこちらで樹木がなぎ倒されたそうです。奥村さんは散歩の途中で雨に合い、そのために風邪をひいたのではないでしょうか。

 彼は運び込まれたときから意識を外にしていたそうです。夜に呼吸困難となり、病院では、彼の持ち物のなかから手帳を捜し出し、病人との関係を確かめる余裕もないまま、一番下に書き込まれた人の番号にコンタクトしたのだそうです。

 というより、電話番号がパリだったことに一縷の望みを掛けてのことだったようです。わたしも彼の手帳を見せて頂き、病院の取った行為は仕方ないと知りました。

 手帳の最初にあった電話番号は日本のもので、『田沼君』とありました。ほかにも何人かの電話番号はありましたが、彼の家族に繋がりそうなものは何もありませんでした。

 こうしてペンを走らせていても、彼の苦しそうな呼吸に、ふとペンの足が止まりそうになります。もしかしたら、彼の肖像画など画こうとしたことが災いを招いたのではないでしょうか。そのように考えると、悲しみのために文字が乱れてきます。

 わたしには自信がありました。人の表情を画くのは得意だったはずです。それなのに、奥村さんの表情に納得がいかないで、二枚も三枚も部屋の床に放り投げたんですもの。

 わたしは、自分の泣いている声に驚き、慌てて辺りを見回してしまったほどです。ときおり漏らす太い息に

「あぁ、彼はまだ生きているんだ」

 と思いながら、彼の命を救ってくれるはずの神に両手を合わせてしまいました。

 きっと、彼の苦痛や、わたしの悲しみを救ってくださる神は、サクレクール寺院に居るのではないでしょうか。そう思った瞬間、わたしは、献金箱の前で彼に言った言葉を思い出し、すっかり青ざめてしまいました。

「おぉ! 神さま、わたしは、とんでもないことを言ってしまいました。献金箱にどのくらいお金が入っているか賭けましょうかなどと言ってしまいました。赦してください。二度とあなたを冒涜するようなことは言いません」 

 わたしの祖母は、家族内に不幸が起こると、意味もなく『南無阿弥陀仏』という念仏を繰り返してばかりいました。わたしも祖母のまねをして、南無阿弥陀仏と言ってみました。でも、わたしが冒涜した神はお釈迦さまではありません。キリスト教の神です。わたしは、慌ててアーメンという言葉を、猛烈な勢いで唱え直しました。

 こんな不信心なわたし、今更、祈ったところで、神に聞いてもらえるはずはありません。たとえそうであっても、この方法しか思い浮かばないのです。もしかしたら声に出していたかもしれません。

 奥村さんを担当している看護婦のマダム シュヴァリエが、わたしの耳許で

「お祈りの途中ごめんなさいね。彼の下着を取り替えましょうね」

 と、ささやかれたこともあります。とにかく、わたしの祈りを、神が聞き入れてくださることを懇願するほかありません。

 困ったときの神頼みの傾向は否めませんけれど、ただ彼のそばに座って、彼の苦しげな呼吸を聞き、自分まで息を喘がせていたところで、何の救いにもなりません。


    七月 某日

 わたしは一睡もしませんでした。奥村さんのベッドの傍らに椅子を引き寄せ、酸素吸入の調子や、額の氷を取り替えていました。

 夜明けの早い夏のフランス。四時半を過ぎたころには、太陽は空の上です。わたしは、日の出を初めて見ました。地平線が白っぽくゆらめいていたかと思う間もなく、病室の窓いっぱいに朝の光が流れ込んできたのです。それは、わたしにとって新鮮で神々しいものでした。わたしは窓に駆け寄り、急いで鍵を外しました。

 押し開いた窓からひんやりとした山気が流れ込み、わたしの頬を愛撫してから、室内でさわやかな音を立てました。奥村さんが意識を取り戻され、枕元にある鈴を鳴らしたのかと思いました。

 慌てて窓を閉めて振り返りましたが、奥村さんは目を閉じ、相変わらず苦しそうな息をしています。

 わたしは、室内をゆっくり見回しました。誰が忘れていったのか、ベッドの上の天井に、南部鉄で作った風鈴がぶらさがっていました。風鈴には絹糸を寄り合わせて作った紐の先に短冊がついていて、いまも静かに揺れています。

 風鈴など日本だったらちっとも珍しくありません。でも、ここは外国。しかもフランスの田舎の病院です。日本人だって滅多に来ることもないでしょう。

 東南アジア系の人が住むアパルトマンの窓辺には、風鈴として、貝の殻に紐をとおして鳴るようにしたものや、長さの異なる金属製の細い棒を何本もぶらさげてあるものは、パリで見かけたことがあります。

 でも、これは完全に日本の品です。短冊に書かれた文字も日本語です。どこかのお寺の境内でしょうか。紫陽花の花が雨の雫を受けて美しく咲いている絵も印刷されています。

 わたしは、咄嗟に奥村さんの持ち物かしらと思いました。でも、日本からの身支度を思い出せばすぐわかることです。彼は手提げ鞄を持っていましたが、天井にぶらさがっている風鈴を入れておく余裕はなかったと思います。

 わたしは、風鈴の静かな音を聞きながら、ここ数日間を振り返ってみました。


 成田の空港で、わたしは、彼の後ろに並んでいました。機内も同じ席でした。搭乗券を受け取る彼の横顔を見た途端、わたしは、思わず胸を押さえてしまいました。ですから機内でもずっと気になっていたのです。

 わたしは、声を掛ける機会を待っていました。モスクーに降りたときも、わたしは、彼の後ろの席に座り、搭乗のアナウンスがあるまで、彼の背中を見ていたのです。

 彼は長椅子の端に一人で座っていました。ロビーの窓いっぱいに輝くモスクーの夕陽をぼんやり眺めているようでした。わたしには、彼が思い悩んでいるように見えました。

 十分ほどそうしていたでしょうか。やがて、彼は気を取り直した風情で、手提げ鞄から大学ノートを取り出し、今までとは別人のような表情になってペンを走らせはじめたのです。

 わたしはそのときになって初めて自分の態度に気づき、あわてて周囲を見回してしまいました。自分の挙動に不信を抱いた人がいたのではないかと思ったのです。幸いに、わたしのことに目をとめている人はいなかったようでした。

 機内に戻ったわたしは、ハンドバッグに入れておいた推理小説を開いていました。視線は活字の上を滑るだけで、書かれている内容なんて頭に入ってきません。なぜなら、今回の帰国の理由がわたしにとって、満足でなかったことと、きょうまでのパリの生活に嫌悪を覚えていたこと。そうして、成田空港のロビーで、前に立つ人の横顔のなかに思いつめたものを感じ、ついその人を観察していたためかもしれません。

 国際電話で母に、一度帰国するようにと泣きつかれたわたしは、画き溜めておいた絵をモンマルトルの画廊に持ってゆき、お金に替えました。そうしなければ、こちらへ帰る航空券を手に入れることができなかったからです。わたしは、何が何でもパリへ戻ってきたかったのです。

 一枚として売れていないわたしの絵など全部処分したところで旅費の半分にも満たないと思っていました。ところが、ところがです! 画廊の主人は、絵とわたしを見比べていましたが、驚いて飛び上がってしまうほどの値段で、絵の全てをまとめて買い取ってくれたのです。

 売れなければ、それを理由に帰国しないでおこうと思っていましたのに。たとえお金がないからと言っても、母は航空券を送ってきたでしょう。

 画廊が絵につけてくれた値は、日本とフランスを二度も往復もできる上、家族のみんなにお土産までたくさん買っていけるくらいでした。

 わたしは、母と約束したように、一時帰国したのです。わたしを待っていたのは十数枚の見合い写真でした。それも帰国してから二週間も経ってからのことです。わたしの神経を刺激しないためだったかもしれませんが、誰でもいいから、といわんばかりの母に

「自分の相手は自分で決めます。お父さんにもそう言っておいてください」

 と言って、そのまま成田へ。そしてあの飛行機に乗ったのです。

 モスクーからパリまでのあいだ、わたしは少し眠ったようです。人の気配で目を覚ますと、モスクーの空港ロビーのときと同じように、眉間に皺を寄せた奥村さんが、大学ノートに向かって何やら書いていました。わたしは、直感的に『この人は作家』と思ったくらいです。でも、その考えも次の直感で塗り替られました。

 ほんの小さな直感だったものが、頭のなかで右往左往しているうちに大きくなり、鮮明になっていったんです。

 それは『遺書』という二文字でした。母と争い、そのまま日本を飛び立ってきたという負い目が、わたしの心のどこかに存在していたのかもしれません。卑怯なわたしは、両親を悲しませているだろうと思うのが嫌で、奥村さんのことに心を向けていたのかもしれません。自分にもわかりませんが、確かに彼の横顔には苦悶のような翳がありました。

 わたしは、自分の心を、彼を救えという一点に集中させました。

 最初に取った行動は、彼との接触です。でも悲しいかな、話しかけるすきがないのです。わたしがやきもきしているあいだに飛行機は高度を下げていくばかり。とうとう前方に赤ランプがともってしまいました。もう開き直るほかありません。

 わたしは、開いたままの本に視線を落としていました。

 滑走路に車輪の軋む音がしてもわたしは座ったまま、いえ、もっと深く座り直したくらいです。立ってしまえば、わたしの計画は水泡に帰してしまいますもの。わたしは、お尻に接着剤を塗りこんだ人のように、立とうともしませんでした。奥村さんの邪魔をしていれば、彼が声を掛けてくるかもしれないという淡い期待を抱いていたからです。

 乗客が出口に向かって押し寄せてきました。わたしは、自分の肩にぶつかる客の荷物の勢いを借りて、席を一つなかへ入れました。立ち上がった奥村さんは、わたしの態度に目をぱちぱちさせていましたが、何も言わないでご自分も座席に腰をおろしたのです。そうしてポケットから折れ曲がった小冊子を取り出して読みはじめました。わたしの心に春風が吹き込んできました。

「いやですわねぇ。どうして慌てて降りようとするのかしら」

 と言ってやったんです。

『反応、大いにあり!!』

 彼は一瞬でしたが太い眉を重そうに持ち上げ、わたしの顔を珍しいものでも見るような目で見ていました。ですから、わたしは、何も考えないようにして即座に言いました。

「ふふふ。急に声をかけたから驚いていらっしゃるのね」

 あとは流れるままに進んでいけばいいのです。でも安心しました。だって、わたしを見おろした彼の表情には死ぬような気配など微塵もありませんでした。どうして遺書を書いていると錯覚したのか今になってもわかりません。


 十時にドクトゥールが回診に来ました。でっぷりとした体形から、どことなく達磨を思い出してしまうのですが、診察をしているときの姿は厳格そのものです。

 ドクトゥールは、次の病室に移る前にわたしを廊下に呼び出しました。

「マドモアゼル、彼は左半身に麻痺を起こしているようです。これはあくまでも一過性のものです。簡単に言ってみれば、大人の小児麻痺といったようなものでしょう」

 と言うのです。

 わたしは、呆然とドクトゥールの顔を見上げていました。ドクトゥールは青い瞳の奥に悲しみを浮かべて何か考えているようでしたが、声を低めて

「熱が引けたらパリかリヨンの病院に移ったほうがいいでしょう。ここでは残念ながら、充分な医療体勢が整っていないのです。自分の診たかぎりでは、ムッシュ奥村の麻痺は完治するはずです」

 とおっしゃるのです。そうして、いきかけた足を止め

「マドモアゼル、あなたは彼のフィアンセですか?」

 とたずねられました。

 わたしは、ドクトゥールの突然の問いに準備もなく、『ノン。ウイ』の両方を言ってしまったのです。ドクトゥールは口許に微笑を浮かべると、小さくうなずかれました。そうして、何もおっしゃらないで隣の病室へ入っていかれたのです。この場合、答えのどちらが優先されるのかしら。

 ドクトゥールの微笑は、わたしの答えをどちらに採った印なのでしょうか。とても気になります。わたしは、不安な思いで、ドクトゥールが入っていかれた隣室の黒いドアを見つめていました。

 わたしは、病室へ戻ってもそのことばかり考えていました。自分でも自分の真意がわからないのです。陽に照り映える窓外の景色を見ながら、自分でも可笑しくなるほど、さっき言った答えにこだわっていました。ノンを先に言い、ウイをあとに言ったことがとても気になるのです。

 ウイと言った背景に、奥村さんの状態を咄嗟に思い出したかもしれません。ノンなどと言えば、ドクトゥールに、わたしの人間性を疑われるのではないかと恐れたのかもしれません。病人をこのままにしてパリへ戻ってしまうような人間に思われたくなかった。ただそれだけなんです。ほんとです。

 自分の胸の内でそう結論づけてからというもの、わたしは、ウイとノンを反復するようになりました。

 長い一日でした。それでも彼は眠ったままです。いえ、眠ったままというのは正確ではないみたい。なぜなら、彼は眠りたくて眠っているわけではありません。意識が戻らない、と言うべきかもしれません。

 彼にとって三日めの朝の気配が大きな窓の外に感じはじめています。このまま永久に目を覚まさないのではないでしょうか。


    七月 某日

 ふと顔を上げると、室内に午後の光があふれています。わたしは、誰かに見られているような圧迫感に周囲を見回しました。

 わたしは、感動に胸を震わせてベッドへ飛んでゆきました。

「気がつきましたの?」

 彼は黙ったまま、わたしをじっと見つめています。生気のない瞳は、愚鈍な人のようです。彼の上に身を屈めていたわたしは、暗い穴のような彼の目に恐怖を覚え、思わず身を起こしてしまいました。

 つかの間、わたしは、姿勢をくずさないで立っていましたが、気を取り直して

「まりです。伊達まりです。おわかりになりませんの?」

 と、必死な心で呼びかけました。

 奥村さんは何か言おうと唇を動かしましたが、声にもならず、再び目を閉じてしまいました。

 彼が意識を完全に快復したのは夜中でした。

 わたしがきょうのことを日記に書いているときです。彼は自分が寝ていることと、わたしがいることにずいぶんびっくりしたようです。健康な人のように飛び起きようとして、左半身からベッドに沈んでしまいました。

 彼は恐怖に顔をこわばらせ、もう一度半身を起こそうとしましたが、無駄な努力と知って、絶望の視線を虚空に泳がせたなり、枕に顔を伏せてしまわれました。

 わたしは前後の考えもなく

「奥村さん頑張ってね。まりがいるわ。まりがあなたの傍にいて一緒に頑張ります」

 と、涙ぐみながら叫んでいました。

 列車から手を振っていた彼。いま、声もなく枕に顔を埋めている彼。どちらも同じ人。どちらも同じ奥村さんその人です。

 もし、この病が重い風邪くらいだったら、こんな気持ちにならなかったでしょう。たまたま機内で席が同じだっただけの人。彼の買い物に付き合い、食事を共にしただけの人。

 彼の家族の住所を聞き出し、連絡さえすれば、わたしは自由になれるはずです。でも、それができない。何かがわたしを拘束しています。今までのまりはどこかへいってしまったようです。

 そのとき、わたしは、動悸に煽り立てられるように思い出しました。奥村さんと登ったモンマルトルの石段をです。

「なぜって、神は宇宙の根源である光をお造りになり、それに時をコンタクトさせたのではないかしら」

 そんな生意気なことを言ったわたし。その上

「自然というものは、つねに、美とそれに抗う破壊とが、一定の法則のなかで共存しているのではないかしら。ちょうど生物の生と死みたいにね」

 だなんて言ったのです。

 わたしは、苦しそうな奥村さんの姿を見ていてそんなことを思い出したのです。元気な奥村さんも、こうして病床に臥せっている哀れな姿も神の意志ではないでしょうか。

 そんなふうに考えると、わたしは、とんでもないことを言ったように思えてきます。あんな馬鹿みたいなことを言わなければ、奥村さんの上にこんな不幸が纏わりつくこともなかったのではないかと。


    七月 某日

 奥村さんの高熱も体温を計る度に下がるようになり、今朝になってやっと平熱になりました。それと同時に、触れられても知覚しなかった左の手足に、皮膚感覚が少しずつ戻ってきたようです。

 ドクトゥールは診察をしていた手を休め

「ムッシュ奥村は稀にみる頑健な肉体の持ち主だ。これなら完治するのも思ったより早いだろう」

 と言ってくださいました。

 看護婦のマダム シュヴァリエも、彼の腕に注射をしながら

「まり、心をしっかり持つのよ。マリア様にお祈りしなさい。彼女があなたの祈りを聞いてくださいますからね」

 と言って、わたしのエプロンのポケットに小さな絵を入れてくださったのです。

 それは名刺判ほどのもので、青いマントを着たマリア様が、輝く太陽を背に、にこやかに立っておられるものでした。

 注射を済ませたマダム シュヴァリエは、ドクトゥールのあとを追うように廊下に小走ってゆきながら

「まり、聖母マリアにたくさん祈るのです」

 と繰り返されました。

 彼女は、どんなに忙殺されているときでも、奥村さんやわたしを励ましてくださるのです。今もわたしの目をじっと覗き込むようにして

「まり、あなたの名前は聖母マリアと同じ、きっと彼女が必ずあなたを守ってくださいますでしょう」

 と言って、廊下を駆けてゆかれました。

 わたしは、決して不信心のほうではないと思います。どちらかといえば、縁起を担ぐくらいですので、意識の底には信仰心のかけらがあったのでしょう。ですから、マダム シュヴァリエもそうおっしゃってくれたのかもしれません。

 奥村さんは何かにつけて詫てばかりいます。わたしは、そのことがとても悲しいのです。意識を取り戻されてからというもの、事あるごとに、「伊達さん済みません」と繰り返すのです。そのことで、とうとう彼と衝突しました。

「新しい下着と替えましょ」

 と言いますと、彼は固い表情で拒むのです。

「どうしてなの?」

 と、少し腹立たしい心を、それでも懸命に抑えながらたずねますと

「伊達さん、ぼくのことなど構わずにパリに帰りたまえ。献身的に尽くしてくれればくれるほど辛くなるんだ」

 わたしは、彼にそう言われると、全身の血が全て頭に上り

「じゃあ奥村さん、ご自分で着替えたらどうなの」

 と言って、手に持っていた奥村さんの下着を壁に叩きつけてしまいました。

 言ってしまった瞬間、わたしは自分の口を押さえました。叩きつけた奥村さんの下着が運悪く、彼の顔の上に落ちたのです。わたしの右手に痛みが走りました。肉体的な痛みではありません。馬鹿なことをしてしまったという激しい後悔の痛みです。

 彼は自由の利く右の手で、汗に濡れた下着を脱ごうとしました。誰が見ても空しい行為です。無理と承知してやっているのを見ているうちに、右の手に感じた心の痛みを忘れ、再び怒りが込みあげてきました。

 わたしは、冷たい心と悲しい思いで見おろしていました。

 空しい努力の末、奥村さんは絶望の呻きを発すると、そのまま枕に顔を埋めてしまいました。

 わたしは、彼の様子を見ているうちに、小学三年生のときの運動会を思い出しました。

 競技は障害物競走でした。三人の女の子と三人の男の子が梯子をくぐり、網を抜け、平均台を渡ってゴールインするのです。

 わたしは、もちろん一番でした。走る前から一番になると、自分に言い聞かせてもいましたもの。ゴールインして振り返ると、軽い小児麻痺の男の子が二番目の障害物の網のなかでもがいていました。その恰好がユーモラスでしたので、手を打ちながら

「頑張れ! 頑張ってぇ」

 と叫んでしまったのです。

 毛布のなかでもがいている奥村さんの恰好が、そのときの男の子に似ていました。薄い毛布がくしゃくしゃになったり、ポコンと持ち上がったりしています。

 あのときは、ただユーモラスに見えて笑いました。そして、心から頑張ってもらおうと拍手をしたのです。いまは違います。特にパリに来てからのわたしは、自分でも思っていないほど卑しい女になってしまったようです。

 わたしは、額に汗を掻きながら喘いでいる彼の様子を、少し離れたところから皮肉な笑いを口許に浮かべて見おろしていたのです。

―― できるものならやってごらんなさい。自分が惨めになるばかりじゃないの。わたしには関係ないから大いにやってみればいいのよ。 ――

 開いた窓から涼しい風が流れ込むと、ベッドの上の風鈴が澄んだ音を立てました。音の余韻の先が、アルページュのように細かく調和しています。それは、わたしにとって悲哀そのものです。いつもなら、うっとりと聞く音色なのに、いまは悲哀としか言えません。

 風鈴の澄んだ音色は、あたかも、わたしの心のさまを責めているように聞こえました。今、心をよぎった奥村さんへの思いに、風鈴は憂いを含んだもののように聞こえました。

―― どうしてこれほどまでにわたしが我慢しなければいけないのよ。病人は言うことを聞いていればいいのよ。それなのに、奥村さんは逆らってばかりだわ。そんな人のために貴重な時間を浪費することないじゃないの。 ――

 わたしの心の底でそう囁いています。その言葉にわたしは、大いにうなずきながら、反面で、自分の心に冷たい目を注いでもいました。

「まり、こんなになった奥村さんにそんな心になっていいの?」

 毛布のなかで芋虫のようにうごめいている奥村さんの姿を見ているうちに、わたしは、めちゃめちゃ悲しくなってきました。窓から吹き込んでくるさわやかな風に風鈴が気持ちよく鳴っているのに絶えられなくなり、わたしを責めさいなんでいるとしか思えないその音を振り切って廊下へ飛び出していきました。

 七月の空が悔しいほど青く澄んでいます。周囲の森から野鳥の囀りが聞こえてきます。どれもこれも、今のわたしにはトゲのようです。雲ひとつない空の青さ、いつもなら考えもしないで絵筆を取り上げているのに。空の青さが春を待ち切れないでニュッと顔を出した青いトゲとなってわたしの目を射てくるのです。

 わたしは、目的もなく病院の周囲を歩きました。自分の思うままに人が動かないと腹を立てる。だからと言って、自由になりすぎても腹が立つ。わたしには自制心というものが欠如しているのでしょうか。

 機内での彼。モンマルトルの石段を上っていった彼。列車の乗降口で手を振っていた彼。どの彼もわたしには新鮮でした。今まで感じたものと違う感覚が心の内にありました。

 パリを初めて見たときの印象。初めて会った人からの印象。それも新鮮なものでした。ところが、奥村さんは過去に受けた印象とは違うものを持っていました。わたしの心を騒がせる何かを持っていました。

 サン ジェルマンの通りを歩いていた彼の後ろ姿から、何となく無防備なところへ一撃を受けた人のように感じ、黙ってついていったときも、何か誇らしいものを感じていました。わたしだけがこの人を知っているという独占の快感でした。

 そんなことを考えながら駐車場のなかを歩いていると、片隅に放置されている車に気づきました。何の気もなく近づいてなかを覗くと、見覚えのあるテントの道具が後部座席に置いてありました。

―― これを運転していけばパリに帰れるんだわ。 ――

 わたしは、そうつぶやいたかもしれません。自分の気持ちのどこかに、ここから解放されたいという思いがあったと思います。それを彼が無意識に言ったのでしょうが

「パリに帰りたまえ」

 と言われたことで、わたしの勝ち気な部分に触れられたのです。

 奥村さんは、わたしの心の隅から隅まで見通していたのかもしれません。献身的に彼の世話をしているように見えても、彼には、わたしが心底から行なっていないと見抜いていたのでしょう。

 わたしは、彼の乗ってきた車のボディーにもたれて、どうして自分がこんな心になるのかと考えてみました。

 日本にいたときのわたし、パリに来てからのわたし。どこを捜しても人のために自分の時間を費やすことなどありませんでした。

 母が病気のときでも看病したことのないわたしです。そんなわたしに何が出来るというのでしょう。興味本位だけでこんなところへやってきたのでしょうか。いったい彼とどんな関係があって、彼の看護をしているのでしょうか。

 病院からそれほど離れていないのでしょうか? 子どもたちのコーラスが聞こえてきます。日本でもよく耳にする童謡です。

『フレロー ジャック フレロー ジャック ドルメ ヴ ドルメ ヴー』

 数人が歌い出し、次のフレーズへゆくと、次のグループが繰り返す歌です。わたしも小学校のときに歌った記憶があります。ですから、思わず一緒に口ずさんでいました。

「リンダンドン リンダンドン」

 そうやって歌っているうちに、心のなかのもやもやが薄れていくようでした。

 わたしは、澄んだ子どもたちの歌声を聞いているうちに、心を騒がせている思いのつまらなさに気づき、のろのろではありましたが、奥村さんの待つ病室へ戻っていきました。

 病室の前にマダム シュヴァリエが立っていました。彼女は、わたしの心を察しているような口調で

「まり、あまり無理をしては駄目よ。疲れたら林を散歩していらっしゃい。そのあいだは、わたしが彼を見て上げますからね」

 と言うのです。

 わたしは、彼女の言葉にちょっぴり涙ぐみながら大きくうなずきました。そうして、

「もう大丈夫です。ほんとに御免なさい」

 と言って、深く頭を下げました。

 彼女の穏和な顔を見ていると、本当に泣いてしまいそうだったのです。わたしは、彼女に優しく背を押されるように病室に入っていきました。


七月 某日

 看護が重荷に感じる日もありました。彼の済みませんという言葉を日に何回も聞いているうちに、慣れというものでしょうか、次第に耳にタコが当り、それほど気にならなくなりました。

 それに、わたしの心の迷いも払拭できたようです。彼に抱いた苛立ちも病状が日に日に好転していく過程で、少しずつ解消していくみたいでした。

 わたしは、朝のさわやかな風を入れようと窓を押し開きました。この朝は特別な思いで窓を開いたのです。というのは、たとえきょう一日だけでもいいから彼に済みませんという言葉を『使わない』という約束を取りつけることです。

 なぜなら、きょうはわたしの二三回目の誕生日。わたしは、まちがいなく生まれ変わるのです。何回も躓いては転び、それでもと思い直して立ち上がり、横たわっている奥村さんの顔をそっと盗み見て、自分の胸を叩いてきたのです。

 一生に一度くらい自分を人のために犠牲にしてもいいのではないでしょうか。それも快復の希望がある病気。彼が歩けるようになるまで、彼の傍にいる決心をしました。

 わたしは、何が何でもきょうばかりは、奥村さんに、わたしの言うことを聞き入れてもらいます。彼が『済みません』という言葉を発する前にわたしは、彼に約束させることができました。

 彼は、わたしが二三歳になったというと、驚いているようでした。きっと二〇歳くらいと思っていたのかしら。それも仕方のないこと。まるで子どものようなわたしですもの。

 彼は、マダム シュヴァリエといつ密約を交わしていたのでしょうか。夕食後、彼女は、小さいけれどとても美しい花束と、一つの包みを胸に抱いて病室に入ってきました。

 彼女は、入ってくるなり

「まり、誕生日おめでとう!」

 と言ってわたしの頬に口づけをしてくれたのです。そうして

「まり、彼からの口づけも受けなくては」

 と言うのです。

 奥村さんは顔を真赤にしていました。

 わたしは、少し変わっているのかしら。なぜって、彼の口づけを待つ心が自分に感じられたからです。こんな感覚は、パリでの乱れがましい生活からくるものなのでしょうか?

 もし、そうだとしたら、奥村さんからの口づけを受けるわけにはいきません。当惑しきっている彼の顔を見ただけで、自分が世間の垢に染まり切っているのではと、とても悲しい気分で思っていました。

 マダム シュヴァリエは、そんなわたしの心などに屈託しないで彼の照れた顔を見て

「おぉ! 隆夫は子どものようね」

 と言って、楽しそうに笑いました。

 わたしは複雑です。マダムのように何の屈託もなく笑いながら、奥村さんの口づけを受けられたらと、ちょっぴり悲しい気分で立っていました。

 遠くに雷鳴が鈍く響いています。風が流れ込むと、風鈴が澄んだ音で歌いはじめました。わたしは、いつかマダムに尋ねようと思っていたことを思い出し、彼と彼女から贈られた品を抱いたまま顔だけを上向けて風鈴のことを尋ねました。

 マダム シュヴァリエは風鈴を見上げていましたが、ふっと小さくため息をつき

「十年も前のことよ」

 と言って、こんな話をしてくれました。

 近郊にある洞窟を訪れた観光客のなかに日本人がいて、その一人が洞窟内で転倒して足の骨を折ってしまった。五週間ほど入院して、松葉杖を自由に扱えるようになって退院していったという。

 その患者が数ヵ月したころ、礼状とともに風鈴を送ってきた。その便りのなかで

「『入院してくる患者さんにとって、ひとときの安らぎになるなら吊るしてやってください』とあったのよ」

 と、マダム シュヴァリエは、過ぎ去った日を懐かしむように、目を細めて静かに話してくれました。

「ねぇ、ここには何と書いてあるの? 一度そのことを尋ねようと思っていたの」

 マダム シュヴァリエは手を伸ばすと、風鈴の下にぶらさがっている短冊をおさえながら言いました。

 わたしは、彼女の押さえている短冊を下から見上げて

「『紫陽花の 鞠の滴に 風光る』と書いてあります。作者は不明ですって」

 わたしは、フランス語に直しながら読んでみて、俳句という文化の持つ歴史の重さをしみじみ感じました。フランス語にしてしまうと、ちっとも心に響いてこないんですもの。ですから、マダム シュヴァリエが日本の文化である俳句をどれだけ理解できたかとても不安でした。


七月 某日

 奥村さんの状態は日を追うごとに好転し、鈍いわたしにさえわかります。自分で寝返りもできるようになりました。全く感覚のなかった手足の先にも電気に打たれたような痺れも感じるようになってきたそうです。

 ドクトゥールはそろそろ退院してリヨンかパリの病院に移り、しかるべき専門医の指導を受け、機能快復に専念すべきだろうと示唆してくださいました。ですが、わたしの力では彼を汽車に乗せてパリまで連れていくことは不可能といえましょう。

 このようなことになるとは夢にも思っていなかったので、彼としても金銭的に余裕がなさそうなんです。そこで彼は東京のS銀行に国際電話をし、パリのわたしの口座に振り込んでもらうことにしました。

 わたしは彼の傍で電話のやりとりを聞いていましたが、あまりの多額に、「この人はいったいどういう人かしら?」と思ってしまいました。

 わたしから見れば、自由にできる金額とも思えないのに、それなら、どうして日雇いなどしたりしていたのでしょうか? 思えば、奥村さんのこと、彼の過去について、わたしはあまりにも知らなさすぎると思いました。そんな人のために、どうしてここまで手を貸す必要があるのでしょうか? 

 この問題については、逆から見ても同じ。奥村さんにとって、わたしのようなものに全てを任せることなどよかろうはずがありません。まして、東京の銀行から送金させるお金をわたしに任せるなんて、奥村さんも人がよすぎるというものです。もしかしたら、わたしがネコババしちゃうかもしれないのに……。

 わたしは思いました。パリに戻ったら、一日も早く、彼の家族に連絡を取ってパリに来てもらうべき手段を講じようと。ここまで手を貸してやったんですもの、もう開放してもらい、絵に没頭したかったのです。せっかく認められはじめたんですもの、この機を逃す馬鹿はいません。


七月三十日

 マダム シュヴァリエの電話でこの病院に駆けつけてから三週間になります。パリのアパルトマンや画きかけの絵のことなど気になることが多々あります。特に心の内壁を突き刺している尖ったわだかまりも存在しています。

 有形無形のそれらが撒き散らかされているアパルトマンへ奥村さんを連れていくことに躊躇しないでもありません。

 散乱した室内には誰の目にも触れられたくない、欲望という名の汚臭が澱んでいるからです。彼を連れていくなら先に帰って全てを整えておきたいくらいなのです。

 わたしは、奥村さんを病院に運んでくれた村人のところへ礼を言うためにいってきました。半身に麻痺のあることを話すと、片頬を膨らませ、退院を喜べない、といったような顔をしていました。

 奥村さんは、リヨンで買い求めたシムカの車をマダム シュヴァリエに置いていくことにしました。彼女は、六キロの道を毎日自転車で通っているのだそうです。

 わたしたちは病院側で用意してくれたワゴン車でパリに帰ることになりました。

 出発の朝、わたしは、マダム シュヴァリエに呼ばれました。彼の看護にふれたあと、机の上に置かれた包みを取り上げ、わたしの膝の上にそっと置いてくださったのです。大きさは十数センチほどのものでした。金糸銀糸で刺繍されたチョコレート色の袋に入れてあり、思っていたものよりかなり重いものでした。

 マダムは包みを解くわたしの手元をじっとご覧になっていました。口のとめ紐を興奮しながら緩め、なかからさらに布で包まれた品を取り出したのです。

 金色に輝くマリア像でした。最初、手に乗せられたとき重く感じたのは、足の下の台に鉛が埋め込まれていたからでした。わたしは、あまりにも高価な品ゆえ、ただ彼女の顔を見つめていますと

「プリエ プリエ ア セントゥ マリ」

 とおっしゃいました。これはいつも言われている言葉です。マリア様に祈りなさいという意味なのです。

 この言葉は、朝となく夕となく彼女がくり返してきたものです。ふつうなら、もううんざりというところかもしれません。でも、マダム シュヴァリエが言えば心にぬくもりを感じるのですから不思議です。

 わたしは、緊張の連続だった三週間を瞬時に思い出したとたん、心が緩んでくるのを意識しました。涙が堰を切ったように溢れ、顔を上げていられませんでした。

 わたしは、彼女から贈られたマリア像を抱きしめたまま彼女の膝に突っ伏してしまいました。

―― おお! マリア様! 明日からまりが一人で奥村さんの面倒をみてやらねばいけないのでしょうか? ――

 わたしは絵を画きたいのです。 奥村さんには失礼かもしれませんが、半身麻痺の人は大きな重荷ですもの。

 わたしは、マダム シュヴァリエの膝に顔を埋め、心のなかでそう叫んでいました。彼女にはわたしの心が詠めるらしく

「まり、あなた一人ではありません。マリア様が常にあなたを見守っていてくださいますからね」

 と言って、わたしの震える肩を撫でてくださるのでした。

 こんな涙はフランスへ来てから初めてです。いいえ、高校時代に一度だけありました。わたしを可愛がってくれていた祖母が急逝したときです。

 目を閉じている祖母の肩に縋って

「お祖母さま早く目を開けて」

 と泣き叫んだことがあります。

 周囲の人が見かねてわたしを祖母から引き離し、無理矢理隣室に連れていったことをきのうのことのように覚えています。

 思えば、祖母の死後これほどの涙を味わったことはありません。心を乱す苦しみは何回かありました。でも、それは自分で招いた苦しみでした。わたしは、人の不幸を悲しむ涙が自分のなかに残っていることにほっとするものを感じます。

 こちらに来てからのわたしは、どことなく心が沈んでいたのかもしれません。機内で初めて彼に言葉を掛けたときのように、奔放なわたしに戻らなければ彼の看病など続けられるはずがありません。

 わたしは、マダム シュヴァリエの温かな膝に顔を伏せて、今から明るい娘に立ち戻ることを誓っていました。


 私は、ここまで彼女の日記を読んできてふっと顔を上げた。窓外は暮色が消え、闇が窓枠を塗りこめていた。隣家の灯が、奥村と伊達まりの残していったものを読んできた私の目に疲れの色を感じさせるように、ゆらゆらと滲んで見えていた。

 奥村という男は何と幸せな奴だろうという思いが胸いっぱいに広がってきた。村人に発見されたからいいものの、あのままテントのなかで終日高熱と戦っていたらそこで死を招いていたかもしれない。アルバムに納められた写真でしか知ることのできない伊達まり。私は、彼女の日記から一つの印象を受けた。

 それは奥村を知る以前の彼女の一面が、彼との生活を重ねていく仮定において、しばしば苦痛を伴って心の表面に浮上してくることだった。

 画家としての天分を持つ彼女の体のどこかに、常人には理解しえない特殊な感覚を潜ませているらしいことだった。

 私は、そこに奥村に通ずる感覚を見たように思う。大学時代の彼しか知らない私だが、彼は自分の顔の向いている方向のものしか見ていない、という点があったように記憶している。

 だが、それはそのまま視野の狭さに結びつくわけではない。むしろ彼には多くの目玉がついていたと思う。恰もトンボのようにだ。それ故、自分の意思を一つに集中させていないと、混乱してしまう恐れがあったのではないだろうか。

 私は、もう一度アルバムを取り上げた。結婚式の写真、二人で旅をしたときの写真。どの写真を見ても奥村の体に弱点を発見することはできなかった。それだけ二人が努力したことにもなるのだ。

 ラグビーの試合中、敵の激しいタックルに気を失っても、頭にヤカンの水をぶっかけられると、闇雲に敵陣に突進していくような男だった。彼なら必ず苦境を乗り越えていく。私は、写真のなかの彼のほほ笑む姿を見てそう思った。

 私は、薄暗くなった窓際を離れ、暖房にスイッチを入れた。春の陽は没し、雨樋を伝う雪解けの音もいつの間にか消えていた。朝の陽が屋根の雪を解かすまで暗い闇のなかで凍りついているであろう。

 奥村の肉体もいまはない。彼の霊魂はどんな闇が訪れようと再び凍りつくこともなければ消え去ることもない。

 私は、再び伊達まりの日記に視線を向けた。細かく美しい文字だ。たぶん、彼女の描く絵ものびのびとしているに相違ないだろう。

 残念なことに、彼女の描いた正式な絵は手元にない。ダンボールの箱の一つにそれらしきものが何点か見えているが、私の膝の上にある彼女の日記のところどころに添えられた絵を見るだけで、彼女の素養の高さをうかがい知ることができる。





  • 第7章へ


  • 残照へ戻ります


  • トップサイトへ