残照 第7回


森亜人《もり・あじん》



      第7章

「ただいま帰りました」

「お帰り」

 わたしは、アパルトマンのドアを開けるなり室内に向かって明るく呼びかけました。今までは誰もいないと知りつつもドアを開けるとそう呼びかけてきました。自分の声が誰もいない室内に吸い込まれていくのを寂しい思いで聞いてきたことか。でも、これからは違います。わたしが

「ただいま」

 と言えば、

「お帰り」

 と言ってくれる人がいます。

 わたしは、きょうの日記を書きはじめる前に、この事だけは独立して書いておきたかったのです。

 わたしにとって自分の過去の全てを払拭し、新たな世界に突入する日だからです。これは、あくまでもわたし個人の問題ですが、やはり、きちんと整理しておかないと、全てを任せようとしている奥村さんに失礼だからです。

 この崇高な出来事の始まりに当たり、わたしは、自分の過去の一切を捨てることにしたのです。病人の介護が崇高な行ないかどうかわかりません。でも、わたしにとっては考えられない行為なんですもの。

 といっても、奥村さんの知るところではありません。また、わたしの過去を彼に話す気もありません。とにかく、いまは彼のために自分の精神を使ってみたいのです。そうすることによって、わたしの画く絵に、わたしの願っている色調が出ることを心頼みにしてのことです。


七月 某日

 奥村さんとわたしを乗せたワゴン車がブール ミッシュのアパルトマンに着いたのはきのうのことです。奥村さんの疲労を考え、途中で何回も休みながらやってきました。高速道路に美しい虹が掛かっていたことや、薮のなかを走り抜けていったカモシカのことも、ここに絵を添えて記しておきましょう。

 アパルトマンに到着したのは、昨晩の一一時ごろだったでしょうか。病院からずっとハンドルを握ってこられた運転手さんは、奥村さんを軽々と背負ってわたしのアトリエのベッドまで運んでくださり、セーヌ右岸の兄弟の家にすぐいってしまわれました。

 わたしは、寝室のドアを開くことに恐れを抱いていました。どんなに散らかしてあるか覚えがないのです。もしかしたら下着が干してあるかもしれないし、もっと恥ずかしい品が室内に転がっているかもしれません。

 マダム シュヴァリエの電話で身の周りの品をバッグにつめ込み、アパルトマンを飛び出していった三週間前の早朝のことなどよく覚えていないのですもの。

 それで、寝るのに少し窮屈と思いましたが、アトリエにいつも置いてある簡易ベッドに寝てもらうことにしたのです。

 きょう、カンシューの病院のドクトゥールの紹介状を持ってオピタルを訪ねました。幸運にもベッドが一つ空いていました。わたしは、奥村さんに何の相談もせずに入院の手続きをしてきたところです。

「ただいま」

「お帰り」

 この挨拶もきょうかぎりです。彼を病院へ入院させ、日本にいる彼の家族に連絡を取れば、わたしの仕事は終わります。でも、心のどこかに、これきり彼と疎遠になる寂しさを感じていないこともありません。

 わたしは、自分の過去を払拭させなくては、画廊のマダムに指摘された絵しか画けなくなってしまいます。日本へ一時帰国する旅費を得るためにモンマルトルの画廊へ画きためておいたものを持ち込んだ日のことが頬を熱くさせます。


七月 某日

―― おぉ! マリア様! ――

 わたしは奥村さんと話を終えて自室に戻ってきて、ベッドに身を投げ出してしまいました。なぜって、わたしは、彼の家族にパリへ来てもらいたいから電話番号を教えて欲しいと言ったんです。そうしたら

「あぁ、伊達さん、ぼくには家族はいません」

 ですって。

「でしたらこれからどうすればいいのですか?」

 と、わたしは彼の思いなど考えもしないでそう叫んでしまいました。

 奥村さんの表情を真っ白な画布に画けと言われてもわたしには画けないほど複雑な色を浮かべ、奥村さんは目を閉じてしまわれたのです。

 わたしは、枕に頬を埋めて何回も何回も大きなため息をつきました。だってそうでしょう。パリまでは奥村さんのために時間を使うのも仕方ないと思っていました。パリで病院に入院させてやれば、あとは家族の方に委ねられると思っていたんですもの。

 それがどうでしょう! 彼には家族がいないんですって。

―― ほんとかしら? ――

 ということは、これからのお世話をわたしがしなければいけないということになるのです。そんなぁ!

 きっと、奥村さんも今ごろ整えてさしあげた部屋のベッドの上で苦しんでいるのではないでしょうか。図らずもこんなことになってしまったことに、彼は彼なりに悩み苦しんでいるに違いありません。

 夜明けの早いパリの夏、悶々としているうちに朝を迎えてしまいました。

 わたしは、わたしなりに決心しました。機内でわたしからちょっかいを出したのですもの。 ーー ちょっかい ーー なんていう言葉は不真面目です。あのときは、本当に死を考えている人のように思えたんですもの。ですから、わたしは決めました。彼が自由に動けるようになるまでお世話しようと。ドクトゥールも必ず全快するからと言っておられたんですもの。


八月 某日

 わたしは、額に汗を浮かべ、息を弾ませながら胸を押さえています。とても嬉しいんです。二十分もかかりましたが奥村さんを支え、三階から階段を降りてきたのです。

 自分の行為に感心するのもおかしいかもしれませんが、幼いときから甘えて育ったわたしにはとても考えられないことなんです。

 絵筆より重いものは持たないといえば大袈裟かもしれません。でも、身長一七八センチ、体重七五キロもある彼を、身長一六二センチ、体重四八キロしかないわたしが、抱えるようにして階段を降りたんですもの。興奮してもおかしくないでしょう。

 病室は四人部屋でした。奥村さんは窓際で、どのベッドもカーテンで囲まれていました。窓の下は木立ちです。きっと早朝には野鳥の囀りに目を覚ますのではないでしょうか。

 わたしもパリに戻れば、カンシューにいたときのように彼の傍につきっきりというわけにはいきません。でも、時間の許すかぎり彼の機能快復のお手伝いをしたいと思います。

 午後、東京S銀行よりわたしの口座に入金されたという通知を受けていたので、手元不如意ゆえ、早速お金を受け取りにいってきました。

 わたしは、パンテオンに向かって歩いていました。日本からの観光客の群れがわたしの横を通り過ぎていきます。お金に困らず、自分の欲望を満たすためには幾らでも金を出すといったような顔をした男たちが、脂ぎった視線でわたしの全身を嘗めまわすなかを、急ぎ足で通り過ぎていきました。

 体を固くして歩いてきたわたしは、歩き慣れている横道に入ってやっと歩度を緩めることができました。パリの古い時代の建造物が軒を並べている場所はどことなく重い空気が澱んでいます。

 アンティックな品物が並んでいるウィンドーを見ながら歩いていると、背後に駆けてくる靴音がしたかと思うと、わたしの名を呼ぶ声が迫ってきました。

「おい、まり。いったいどこに行ってたんだ。何回も電話をしたし、お前のアパルトマンへも行ったんだぜ」

 それはパリに戻る前から恐れていた人、蒲田さんでした。正直をいって、今のわたしは、彼の顔を見るのも嫌になっていました。ですから、少し冷たい口調で

「わたしの自由でしょ」

 と言ってやりました。

 彼は少々のことで引き下がる男ではありません。それに、わたしの弱点を知り尽してもいるのです。彼は冷笑を口許に浮かべると、わたしの肘を掴んでカフェテラスに引っ張っていこうとしました。

 今までのわたしなら強引な彼の態度に負けていたと思います。なぜなら、パリでの生活に疲れ、失望し、心の底にパリの頽廃が染み込んでいたわたしにとって、彼はいっときの慰めを与えてくれていたからです。

 わたしは、彼の力に抵抗し、歩道に立って

「いまは急用があるの」

 と言ったんです。

 彼はわたしの肘を掴んでいる手に力を入れ、わたしを引き寄せると

「まり」

 と、ことさら口調を穏やかにさせ、わたしの左の耳に息を吹きかけながら言葉を続けました。

「さっきの歩きっぷりをだねぇ、どのように解釈すればいいのかね。おれの見た印象をいわせてもらえるならだが、あれは目的のない歩調と見たが。さて、まりどの、あんさんはどう説明してくださるかね」

 彼はそう言いながら、空いた片方の手をわたしの脇に滑り込ませてきました。公衆の面前での行為に、いつものわたしは、体のどこかで快感を覚えていたものです。でも、いまは違います。そうです、違わねばいけないのです。

 わたしは、唇を噛むしかありません。日本人観光客の男たちの淫奔な目から逃れ、やっと体の力が抜けたところを見られたんですもの。そのことを彼に説明すれば

「へぇ! まりはそういう淫奔を好む女じゃなかったのかい」

 と言うに決まっています。ですから、わたしは、何も言えずに、彼の埃に汚れた靴の先を見ていました。

 わたしは、病院のベッドに寝ている奥村さんの上に思いを集中させ、いつまでも喋り続けている彼の話など耳に入れないようにしていました。彼は、わたしが静かに話を聞いていると思ったのでしょう。わたしの肘から手を放しました。

 わたしは、通りを走っている車に視線を流していました。タクシーが通るのを祈っていたのです。

「おぉ! マリア様! あなたはパリにもおいでになったのですね」

 わたしは、声に出してそう言いました。そうすれば彼が驚いて、一瞬なりともひるんでくれると考えたからです。

 空車のタクシーが徐行してきました。わたしは、身を翻すとタクシーのドアに飛びつきました。猛虎の口から逃れようとする兎のように。

 わたしは、タクシーのなかから後ろを振り返ってみました。呆気にとられたような彼の顔がたちまち小さくなり、やがて彼は、背景となっている建物の色のなかに吸い込まれました。

 わたしは、自分に腹を立て、悔し涙をとめることもできないまま

「まりの馬鹿! まりの大馬鹿!」

 と、声に出して自分に聞かせてやりました。運転手は、わたしがゆき先を言ったものと思い、「パルドン」と振り返りました。

 彼はわたしの泣いているのを見て、片目をつむってみせました。そうして何も言わずに車をゆっくり流し、わたしのおちつくのを待っていてくれたのです。ここが日本のタクシーの運転手と違うところかもしれません。

 わたしは、病院の名を泣きながらやっとの思いで言うことができました。でも、あとは涙、涙、涙でした。

 奥村さんは、病室に入っていったわたしを一瞥すると、わたしの上に何か変事があったことを読み取ったらしく、

「どうしました。顔色が冴えないようですが、どこか具合でも悪いのでは?」

 とたずねました。

 わたしは、彼の不安を打ち消すように

「きのうの夜ね、夢中で本を読みすぎちゃったのよ」

 と、快活に言ってやりました。そうして、彼がカンシューの病院に入院しているときに言ってくれたシャルマンな唇をちょっとすぼめてみせました。

「だったらいいが。看病はたいへんだろうと思ってね」

 彼は、わたしの穏やかなほほ笑みを見て、安心したようにそう言いました。そうして、子どもが何かを背に隠しているような顔になり

「伊達さん、ちょっと目を閉じていてくれないか」

 と言うんです。

「あら! どうして?」

 と、わたしも子どものようにいたずらっぽくたずねました。

 すると彼は唇の端をムムムとさせたきりでした。

 わたしは、仕方なく、彼の言うとおりに後ろ向きになって目をつぶりました。

「いいよ」

 という彼の声で振り向くと

「おぉ!!」

 そうです。わたしは、そう言ったきり何も言えませんでした。彼は笑いながらベッドに座っています。夢を見ているのでしょうか! そうとしか考えられません。きのうまで手を添えてやらなければ半身を起こすこともできなかったのですもの。

 わたしは、感動に震えています。蒲田さんとの再会で苦汁の滴をほろほろとこぼしたばかりというのに。いまは感動に身を震わせているのです。わたしという女は、どうして物事に動かされ易いのでしょうか。

 激しい感動の波が去ると、今度は歓喜の波に足を掬われ、泳ぐように彼に飛びついていきました。

 こんな行為を破廉恥というのなら幾らでもいわれていたい心境です。

 一カ月も寝ていたといっても彼は大男です。わたしは、彼の体を抱きしめ、彼の肩に頬を埋めて泣いてしまったのです。純粋な気持のまま自分の心をぶつけていきました。涙で濡れた頬を彼の頬に押し当て、声を隠して泣きました。

 この破廉恥な行為の陰に、蒲田さんから逃れられたという安堵感が大いに影響していたと思います。なぜなら、いつものわたしだったら、奥村さんにこれほど素直に自分の思いのままを示すことはないからです。

 奥村さんという人は、付き合えば付き合うほど自分を赤裸々にすることをためらわされてしまうところがあったからです。たぶん、それは奥村さんの生き方からくるものだと思います。彼は純粋な目でわたしを見ているように感じるのです。

 ということは、それだけわたしの心身は穢されているのかもしれません。水晶のような奥村さんの瞳に、醜い自分の姿が映っているのではないかと、いつも不安に心を揺さぶられていました。

 でも、何はともあれわたしは越すことのできなかった障壁を乗り越え、奥村さんの胸に身を預け、濡れた頬を彼の頬に押しつけました。絶対離されまいと、わたしは強く頬を押し当てて涙を搾り続けました。


八月 某日 すごく大切な日

 自分の生活必需品や、奥村さんの要事で町に出ると、自分はほんとにパリにいるのかしらと考えてしまうほど外国人で溢れています。

―― まあ、わたしも外国人ですけど ――

 わたしは、自分の過去の一切合切を清算する決意で、ここに蒲田さんとのことを書くことにします。書くことによって、自分の決意が崩れないだろうと思ったからです。

 きのう、病室で奥村さんの胸に身を預けたからにはそうすることが当然です。カンシューの病院で奥村さんのベッドの傍らで日記を書いているときもちらっと自分の過去を彼に話さなければ看護など続けていけないと思ったことはあります。でも、今こそきちんと整理すべき時がきたのです。

 きのうの夜、蒲田さんが突然アパルトマンにやってきました。以前のわたしなら、彼の訪問がたとえ夜中でも突然などと感じませんでした。

 奥村さんも自分の力で立てるようになりましたし、わたしも心置きなく絵に没頭できるようになりました。蒲田さんが訪ねてきたときも、わたしはイーゼルに向かって、デッサンしておいた、『公園で遊ぶ女の子』の絵を画いていたのです。

 とても優しい気分で絵筆を握っていたところへ、突然、蒲田さんがやってきたのです。強引になかへ入ろうとする彼をわたしは、全身の力で阻止し、自分から階段を降りていきました。わたしは、たとえ階段から転げ落ちてもいいと思って駆け降りていきました。

 一階の踊り場で彼に追いつかれ、激しく彼に肩を掴まれました。そうして、いきなり頬をぶたれました。

 今までのわたしなら、そんな彼の行為に身を震わせながら、体のどこかで歓喜してもいました。わくわくしながら、彼の腕のなかへ倒れ込むようにして、赦しを乞うたに違いありません。

 ほんとは震えていました。でも、彼の腕のなかには倒れ込まずに立っていました。そうして、わたしを睨みつけている蒲田さんの不貞腐った顔を見ていました。

「おい、お前に男ができたな」

 彼はそう言って、わたしの裸身を見るような目つきで、胸のあたりから下に視線を滑らせてきました。

 獣じみた目、狡猾な唇。わたしは吐き気を覚えました。蒲田さんへというより、自分に疎ましさを覚えました。わたしは、彼の邪な感覚を遮断するように通りに飛び出していきました。

 通りにはまだまだ人影のある時刻です。わたしが走っていくと、あわてて身を躱してくれます。あとから追ってくる男を阻止してやろうか、と言ってくれた人もいました。

 わたしは、走りながら首を横に振って、手だけひらひらさせました。走るといっても、わたしが目的としている場所はアパルトマンから百メートルくらいな地点です。

―― 今夜で彼との関係を清算しよう。 ――

 わたしは、心のなかでそうつぶやき続けながら夜道を駆けていきました。後ろから彼がついてこようが、諦めて帰ってしまおうが、わたしには目的があったのです。

 アパルトマンの近くに教会があります。わたしは、背後に蒲田さんの靴音を聞きながら、教会の扉に向かって走り続けました。今夜で彼との関係を解消しなければ、再び泥のなかに足を捕られることになりかねません。

 逃げる気持ち半分、追ってきて欲しい気持ち半分。わたしは、後ろに耳と目を回したい思いで教会に走り込みました。彼との問題を引きずりたくなかったのです。息を切らせながら小さな教会の扉に身を投げるように凭れかかり、急いで後ろを振り返りました。

 彼は道路の端に立ってわたしを睨んでいます。ここまで追ってくるくらいですから、彼としても何らかの決着をつけたいのかもしれません。

 わたしは、どきどきする胸を両手で押え、ちょっとほほ笑み、彼に手を振ってやりました。きっと彼も入ってくるでしょう。

 入ってきて欲しいのです。確かに、わたしたちのような穢れた人間にとっては、教会はあまりにも場違いな聖域です。ここでなら、蒲田さんも馬鹿なまねはしないでしょう。

 わたしは、扉を開いて、祭壇に灯る小さな明りに向かって直進しました。それは、とても小さく頼りない明りでしたが、今のわたしには、航路を外した難破船が、遠方に灯台の明りを発見したときのようではないかと感じました。

 蒲田さんは狐につままれたような顔をして、わたしの横に立っています。周囲を見まわしましたが、誰もいません。誰もいないということが珍しいことなのか、当たり前なのか知りませんが、今のわたしにとってはありがたいことでした。

 祭壇上の一角に小さな明りが点っています。闇に迷う人のために灯された灯台の明かりのようです。その明りは、ミサのなかで司祭の手を通して信者たちが拝領できるキリストの御聖体を納めてある聖櫃だと、クリスチャンの友人に聞いたことがあります。

 わたしは、並んでいる椅子の一つに座りました。腕を組んだまま憮然と立ちはだかっている彼の手を取り、わたしの横に座るように促しました。

 どのくらい黙っていたか記憶にありません。気の遠くなるほどの時が流れたようでもあり、ほんの束の間のようにも思われる時間でした。彼も場違いなところへ連れてこられたと思っているのでしょう。わたしと祭壇を交互に睨むばかりです。

 神聖な場所を穢すつもりはありません。蒲田さんのような人ほど、このような場所へくれば、穏やかに話を聞いてくれるように思えたからです。

 わたしは、彼に語るというより、自分の弱い精神に言い聞かせるつもりで話しはじめました。いいえ、祈りといったほうが正しいと思います。

「蒲田さん、わたしね、神様の前であなたに心からお詫びします。あなたとの事、今ではとても後悔しています。自分の弱さからあなたを巻き込んでしまったことです。神様は、わたしを許してくださらないかもしれません。でも、同じ過失をくり返したくないの。そう、あなたとの全ては過失でした。あなたには罪はないわ。みんなわたしが悪いんですもの。でも、やっと目が覚めたの。ほんとにご免なさい。二度とあなたとは会わないつもり。わたし、神様の前で約束します」

 わたしは蒲田さんから祭壇の小さな明りへ視線を移し、心の底でマリア様の加護を念じていました。醜悪な行為に明け暮れていた七月までのわたし。マリア様が聞き入れてくださるかとても心配。でも、わたしは祈り続けました。隣りに蒲田さんのいることも忘れたかのように。

 その彼は唇を噛みしめたきり何も言わないで話を聞いてくれています。きっと、神様が蒲田さんの口を塞いでくださっているのでしょう。わたしは勇気を出して小さな明りを見つめながら言いました。

「さっき頬をぶったでしょ。もし、まだぶちたらないんなら、気の済むまでぶってもいいわ」

 わたしは、椅子から立ち上がって彼の前に立ったのです。

「まり、お前は俺でなければ満足しない。俺はお前の全てを知り尽くしている。俺のほかに誰かお前の体を知っている奴でもいるのかい」

 彼の言葉はわたしにとって屈辱の一言です。彼の低い声が静寂な聖堂内に響いています。悪魔の誘いのようでもあり、わたしの羞恥を戒める神の声のようでもあります。

「まり、お前の乳房の重みを知ったのは、お前の友達のあいつが言っていたリュックサックの男かい? お前の左の耳の異常なまでの感覚もその男に教えてやったのかい」

 わたしは、羞恥に身を震わせていました。今までのわたしなら彼の挑むような言い方に、一種の快感を覚えていたでしょう。

「そうよ。もっと言って」

 いつものわたしなら心のなかでそう叫んでいたと思います。

 彼は言葉でわたしを裸にし、それに陶酔していくわたしの表情を楽しみながら、恥部に愛撫の手を伸ばしてきたものです。

 でも、今のわたしは違います。奥村さんのためにカンシューへ行ってからのわたしは変わりました。蒲田さんのよく知っているわたしが本物なのか、奥村さんと出会ってからのわたしが本来の自分なのかわかりません。でも、いまはいまのわたしの心に従いたいのです。

「蒲田さんもうやめてください。どんなに挑発しても無駄です。それに、奥村さんのことを悪しざまに言わないでください。彼はわたしと何の関係もありません。自分のことはどんなに言われようとも絶えられます。でも、奥村さんのことをわたしのような淫らな女と一緒にしないでください」

 わたしは、奥村さんの青空のような大きな瞳を心に念じ、蒲田さんの誘惑の言葉にくじけないことを願い続けながら、わたしは、彼の目をじっと見つめていました。

 彼は卑しい笑いを口許に浮かべ、わたしの下腹部に手を伸ばしてきました。恥辱が体を貫きました。それと同時に、今まで恐怖しか感じなかった彼に対し、全身を揺り動かすような憤りが込み上げてきました。体内を流れる血液が全て頭に駆け登ってきたみたい。

―― こんな場所でも。 ――

 一瞬、自分でも何をしたのか覚えがありません。静寂な聖堂内に、金属的な音が響きました。

 右の手のひらに何とも言えないおぞましいしびれが残っています。われに返ったときは、蒲田さんの強い腕に締めつけられ、長椅子の上に押し倒されていました。

 いつものわたしなら諦めて彼のするがままに身を任せたでしょう。たとえ抵抗する気があってもアパルトマンでしたら、きっと負けたと思います。しかし、ここは神聖な聖堂。

 わたしは、彼をはね飛ばしたのです。どこにそのような力が潜んでいたのでしょうか。神の救いとしか考えられません。

 彼は、椅子とひざまづき台とのあいだに落ちていました。大きな体をばたつかせ、わたしより先に立ち上がろうともがいていました。

 わたしは、彼が立ち上がる前に教会をあとにしていました。無我夢中で走って、走って、走り続けました。

 どこをどう走ったのか覚えがありません。かなり夜更けていたでしょう。わたしは、一息に三階まで駆け上り、そうして、彼に触れられた全てを洗い流そうと、衣服を乱暴に脱ぎ捨て、一目散に浴室に飛び込みました。

 シャワーを浴びたわたしは、バスタオルを体に巻きつけ、そのままベッドに身を投げ出して朝まで泣きつづけました。

 わたしは、泣きながら考えてみました。どうして蒲田さんに対し、あれほど抵抗することができたのかをです。


 二日前の朝でした。わたしは、嫌な汗で目を覚ましました。この気分の悪さは記憶にないような疎ましいものです。暗いふちに吸い込まれていくような感覚が、どこから来ているのかそのときはわかりませんでした。

 午後、病院へいって、奥村さんの機能訓練を手伝っているとき、電撃的に知りました。リハで汗を流した奥村さんを車椅子ごとシャワールームへ連れていくときの気分は何と爽快なんでしょう。彼に付き添うだけでもわたしは、汗びっしょりになります。額の汗を手の甲で拭いながら彼の体をバスタオルで包んでやるとき、わたしにもよくわかりませんが、何ともいえない満足感に、心がさわやかになっていくのです。

 二十六歳になる大の男が裸にされ、二十三歳のわたしに身を預けている。彼の澄んだ瞳に見つめられると、わたしの心の底のほうから何とも説明のしようのない羞恥が湧いてきます。

 そうです。奥村さんの瞳のなかに見つけました。蒲田さんとの肉欲。淫婦のような醜い自分の姿をです。

 わたしが自堕落な生活に溺れていたことなど、奥村さんは知るはずもありません。でも、彼の瞳のなかに、わたし自身の生き方を戒める光彩を感じました。無論、わたしの意識だけの問題だと思いますけど…。

 きょうは終戦記念日です。わたしの母でさえ当時は子どもでしたのですもの、戦争の痛みを思い出せと言われても戸惑うばかりです。わたしにとっての終戦記念日というのは、原発反対を心に刻み込む日であり、夏の高校野球の熱い戦いでしかありません。

 秋の気配が濃くなってきたパリの空に、マリア様の被昇天祭を告げる鐘の音が聞こえています。日本でも先祖の霊を慰めるために、いつもなら森閑としている寺の境内に、重々しい梵鐘の音が、余韻を残しながら響いているのではないでしょうか。


    八月 某日

 コラボケールの落ち着きのある声で、『ミラボー橋の下をセーヌは流れる』という歌が、古き時代をなつかしむ市民のリクエストに応えてラジオから流れています。

 わたしは、アパルトマンのアトリエで絵の修正に没頭しています。

 セーヌの河面に舟を浮かべ、若い男女がボート遊びを楽しんでいる風景画です。残照が彼等の胸から上を浮き立たせているもので、闇のなかへ沈んでしまった川面の暗さと、対比的な構図です。

 五月の末、モンマルトルの画廊へ持っていったいく枚かの絵と別にしておいたものです。この一週間というもの、集中的にキャンバスと向き合って過ごしました。自分でもかなり納得のいける作品に仕上がったと思います。

 わたしは、ほかにも完成させておいた数点の作品と一緒にモンマルトルの画廊へ持ってゆきました。画廊の主人は美しい婦人で、自分でも絵を画かれる方です。

 セーヌでのボート遊びをじっとご覧になっていたマダムは、目を輝かせて絶賛してくださったのです。 

 もう一つの嬉しいことを書いておかなくてはいけません。

 きのうまでの奥村さんは身を起こしても、わたしの肩に全体重を預けていました。そのため、二人は一緒に転んだことが何回あったかしれません。

 それがきょうは違うんです。体重を掛けられても歯を食い縛らないで彼を支えていられたのです。そうして、麻痺している左足を投げ出すように歩くこともできました。わたしは、思わず

「ブラボー!!」

 と叫んでしまいました。


    八月 某日

 快復の一歩を踏み出すことがこれほど大変なことかと、奥村さんとわたしは、声もなくこの苦汁を味わっています。

 わたしの肩に掴まって歩けるようになった奥村さんは、再び歩けなくなりました。彼の落胆は言葉にすることもできません。終日、頭から毛布を被ったまま、わたしが慰めようとしても、耳を貸してくれません。こんなときこそマダム シュヴァリエがいてくださったらと、痛む胸を押さえています。

 担当の医者は、わたしの心配そうな顔を見て

「このような現象は訓練に励む人ほど受ける一時的の後退です。しばらく休めば前より更に前進しますから安心していても大丈夫です」

 と言ってくださいました。

 そう言われても、彼が不機嫌にしていると、わたしまで不機嫌になります。結局のところ、遭遇の人。それほど心を配る必要はないのかもしれないと思ってしまいます。

―― そうよ、わたしにはわたしの世界があるもの。画家としての道を極めることこそ、わたしに定められた道なんだわ。だから適当に見てやればいいのよ。 ――

 わたしは、自分の気を紛らそうと、リュクサンブール公園に足を運んだり、小さな美術館を見学したりして時を過ごしました。

 一日二日と日が過ぎてゆくうちに、自分の感情を損ねていた奥村さんへの腹立たしさも薄れ、三日めには心配になり、アパルトマンにじっとしていられなくなりました。

 訓練をやりすぎたからといって、関係のないわたしに対し、不機嫌な顔を見せるなんて許せません。そう思って病院へも顔を出さないでいたわたしですが、やはり彼のことが気になり、ついバスに乗ってしまいました。

 彼の態度に腹を立てておきながら、おめおめ出てくる自分に口惜しさを感じます。

 わたしは、蒲田さんのことをふと思い出しました。彼を懐かしむときのわたしは、決まって自分の感情の処理に困ったときなんです。

 彼の粗野な愛撫に、女の羞恥心や、かろうじて自分を保っている自尊心を剥奪され、激しい欲望の火に身を任せることで、心によどんでいる苛立ちを解消させていたのです。

 蒲田さんを思い出したからといって、彼との関係を元に戻そうと考えているわけではありません。彼との忌むべき過去を通し、男の欲情を知りました。ところが、奥村さんには蒲田さんのような欲望がないようなんです。

 わたしは、不思議に思いました。蒲田さんの目には野獣のような光がありました。でも、奥村さんの目にはありません。いえ、ないというより、ある種の怯えに似た動きが瞳の奥で揺れることがあります。

 それに、下着を替えてやろうとして、思わず指が彼の股間に触れてしまうことがあっても、彼のそれは何の反応も示さないのです。きっと病気がそうさせているのだと思っていました。けれども、それは間違いでした。

 数日前ときょうのことです。

 数日前のときは、わたしの思い違いと、あとで自分の考えを否定しました。だって、男の方の変化を敏感に察知できることは、経験が物語っているんですもの。でも、きょうの午後のことです。わたしの早とちりでなかったことを知りました。

 奥村さんの不機嫌な態度に腹を立てて二日ほど病院へゆかなかったわたしでしたが、気がついてみると、彼の下着を買い整えて病院へ足を向けていました。

 わたしの気持ちは、腹を立てて病院をあとにしたときの心情態ではなく、前と同じ気分でしたので、何の拘りもなくカーテンのなかを覗きました。

 彼は心地よさそうに軽い鼾を立てていました。わたしは、彼が目覚めるまでと思い、窓際の椅子に腰をおろして彼の寝顔を見ていたんです。

 濃くて一直線の眉。いまは瞼の裏で休息している大きな瞳に、わたしという女がどのように写っているのかと想像していました。

 茶色がかった瞳の奥に、いつも漂っている不安と怯えに似た惑い。わたしが、彼の心のなかでどのようにデッサンされているのか想像していくと、こちらのほうが激しい不安に怯えてしまいそうです。

 彼を見つめる力で彼の睡眠を妨げてはいけないと気づき、横に視線をすべらせました。薄い毛布の一部がくっきりと高まっています。わたしは、思わず左の胸を押さえました。数日前と同じ高まりです。

 わたしは、無意識のうちに、蒲田さんのそれと比べていました。自分の体のなかで、肉の逸楽を追い求める血が騒いでいるように思え、羞恥に顔を赤らめていますと、奥村さんがぱっちり目を開き、わたしより赤く染まり、小さく呻きました。

―― おぉ! どうしてわたしは、淫乱な心が揺らめいてくるのでしょうか? ――

 寝室のベッドの横に置いてある机に向かって日記を書いている今も、羞恥が心を責めています。過ぎ去った負い目といってしまうには、あまりにも重い過ちでした。この取り返しのつかない過去を、いつまでも引きずっていかなければいけないのでしょうか。


    九月某日

『ブラボー! 万歳!』

 奥村さんがわたしの手を借りないで、自分一人の力で歩きました。本当よ。

 わたしは、自分の目を疑い、彼の手を取っておねだりしてしまいました。彼は、軽く体を揺すって病室内を歩いてくれました。もう一度、

『ブラボー! 万歳!』

 下着を持って病院へいった先月の末からきょうまで、二人のあいだには言い争うようなこともなかったけれど、どことなく視線を反らす日々がつづいていました。でも、きょうは今までの溝を一気に埋めてしまうほどの喜びで、二人は仲よしになれました。

 担当医の話。

「これからは順調に快復していきますよ。今回の失敗を踏まえて、訓練に励めば、完治も早いでしょう」

 と、上気したわたしの頬を軽く打ちながらおっしゃったのです。

 もう一つ嬉しいニュースがあります。モンマルトルの画廊に持っていった『春のボート遊び』が、近代の無名画家の作品で、特に風景画のみを収集しているパリ近郊の富豪に引き取られていったそうです。しかも、法外な売約済みの札が貼られたことで、他の絵までの価値が上がり、売れ残っていたものまで日本の画商に買われていったんだそうです。

―― ばっかみたい。 ――

 記念のためにそのときの金額を書いておきましょう。


   春のボート遊び ……………………… 一万六千フラン

   リラの花陰 …………………………… 一万二千フラン

   公園に遊ぶ女の子 …………………… 一万フラン

   マロニエの木 ………………………… 八千フラン

   鳩に餌をやる老人 …………………… 七千五百フラン

   ベルサイユ宮の森 …………………… 七千フラン

   優雅な牛 ……………………………… 五千フラン


 ほかにも数点ありましたが、それらは、まとめて一万七千フランで引き取られました。ですから、わたしの口座に入金された金額は、八万二千五百フラン。ということになるのでしょうか。驚くべき快挙です。これで溜まっていた三ヶ月分の家賃を優しい大家さんに払っても、あと何年間の生活費と家賃は安心です。


    九月某日

 ブール ミッシュや、カルティエラタンの周囲に再び学生たちがあふれるようになりました。絵が高く売れたことは嬉しいのですが、その分、かなり忙しくなってしまい、病院での看護の時間も思うようにならなくなってしまいました。

 きょう、画廊のマダムに、最近のわたしの絵について心臓をえぐられるようなことを言われました。

「まり、最近の絵は生きていますね。春ごろまでの絵には、どことなく淫乱なところがありました」

 マダムは笑いながらそう言ったのです。聞いているわたしは、笑うどころではありません。

―― 恐ろしい! ――

 わたしは、マダムの顔を見ることができませんでした。密かに恐れていたことなんですもの。口で言わなくても絵筆がわたしの乱調ぶりを語っていたようです。

『明日は無いと思え』

 昔、絵の先生に言われた言葉です。自分の姿が鏡に映るように、自分の心が絵に現われてくることを、わたしは蒲田さんとの交わりのなかですっかり忘れていたようです。

 画廊のマダムに指摘され、わたしは、狼狽を隠すこともできないまま、唇を噛んで耐えていました。

 日本の大学で美術を専攻していましたが、学ぶならフィレンツェへゆくのが手っ取り早いと先輩に言われました。その先輩は現在ローマにいます。彼女の絵に触発されてわたしも一度はローマへと思っていましたが、少女期から自然のうちにフランス語と親しんでいる環境にあったものですから、ついフランスへやってきていたのです。

 画廊のマダムに指摘されるまでもありません。いかにわたしの生活が乱れていたかは、自分自身が一番よく知っていました。でも、わたしの私生活など知るはずもないマダムに指摘され、内心で震えを感じながら、心の深い部分では感動していたことも事実です。


    九月某日

 アルノ川の水面に光が跳ねています。

 古めかしい町の存在を強調しているドゥオーモの屋根も輝いています。

 夕陽が、きらきらと周囲の建物の屋根やねを焦がし、やがて夕闇がそれに代わってアルノ川から立ち上がってきました。わたしは、そのときの推移をホテルの窓枠に肘をついて見ていました。

 夕闇は川面を満たし、岸に上がり、家々を覆い、あの巨大なドゥオーモをも飲み込んでしまうのでしょう。

 そのときまで、わたしは、アルノ川の風景が時々刻々と変化していく様を見ているのです。こうして水面を見おろしているポーズもきょうで三日めになりました。

 アルノ川はアペニン山脈に発し、この町を流れ下り、斜塔で有名なピサの町を抜けて、リグリア海に注ぐ二百数十キロに及ぶイタリア中部を流れる川です。特にいま、わたしのいるフィレンツェは、景色に富んでいる町でもあり、ルネサンス文化が集まっている町でもあります。

 わたしは、急ぎこの町へやってきました。奥村さんをそのままにして旅に出ることは、かなりの抵抗がありましたが、彼の強い勧めもあって、わたしは、飛ぶようにしてやってきたのです。

 フィレンツェへ来る前は、ルーブル美術館で我慢しようと思っていました。でも、どうしてもフィレンツェのウフィッツ美術館のなかで、ルネサンスの香りに浸ってみたかったのです。

 ジョルジオ・バサーリの手によって完成した美術館は、ルネサンスの美術品を納めてある舘というより、建造物そのものが美術品でした。

 サン ジョバンニ礼拝堂の美しい彫刻。サンタ マリア デル フィオーレの目を見張るばかりの屋根。特にわたしを恍惚にさせたのは、ウフィッツ美術館にある巨匠たちの絵画でした。

 レオナルド・ダ・ヴィンチ、ジョット、ラファエロ、ミケランジェロ、ボッティチェリ、レンブラント、ルーヴェンス。名前を上げただけで潰されそう。

 わたしは、一つ一つを丹念に見て回りました。そうして、夕闇がアルノ川の川面から立ち上がるころにはホテルに戻り、こうして水面を飽かず眺めているのです。

 わたしは、ジオットの『草原の聖母』に引かれ、きのうもきょうもその絵の前に立ち、脳裏に焼きつけようと、毎日三時間以上、美術館の係りの人にじろじろ見られるのを無視して見つめてきました。

『ジオット』。フィレンツェ派を代表する画家です。彼の画く絵には優しさがあり、今のわたしを捕らえて放さない人です。彼の作品は、フィレンツェばかりでなく、アッシジやローマにも見ることができますが、わたしは、ここ、ウフィッツ美術館に納められている絵画に強く引かれたのです。

 わたしは、アルノ川の流れと、水際で幼いキリストが水浴びをしている姿と、普通の母としてのマリアを画いてみたいのです。彼女の柔和なほほ笑みと、人の子としてのキリストのたわむれを画くつもりで、こうしてアルノ川の残照を見ているのです。

 本来でしたら、キリスト生誕の地を訪ねてみるべきかもしれません。でも、残照をテーマにしたのは、セーヌのボート遊びが引き金になっていたからです。ですから、なるべく西洋風であって、しかも庶民的でなくてはだめなんです。

 セーヌのボート遊びが高額で引き取られたという理由ではありません。わたしは残照を生涯のテーマとし、あくまでも斬新な絵を画いてゆきたいのです。決して宗教的絵画に固執しているつもりはありません。

 極端なことを言わせてもらえるなら、日本的な水墨画を取り入れてみたいのです。もちろん、わたしのような未熟者には遠い目途でしょうけれど。


    九月 某日

 もうパリは秋も深まっていました。頭上に広がる空も二週間もすれば灰色の空に変貌するでしょう。

 わたしは、奥村さんへの土産が詰まった袋を抱いてパリに戻ってきました。病院の裏にある少しばかりの林もどことなく色褪せてきているようです。

 わたしは、胸の鼓動を押さえて病室のドアをノックしました。なかから返事がなくてもいつものように入っていけばいいんです。でも、きょうのわたしは、何となく気恥ずかしさがあって、しばらく廊下に立っていました。

 ノブに手を掛けたまま、じっと耳を澄ましてみましたが、病室からは何の気配も伝わってきません。ノックの音が小さすぎたのかしら? わたしは、思い直してもう一度ノックをしました。それでもなかからは返事がありません。

 わたしは、病室を間違えたと思って、ドアの上に提げられた名札を見上げました。

 一番ベッド、二番ベッド。ここは空欄になっていて、三番ベッドにはリウマチスで入院している老人の名があります。もちろん、四番ベッドは奥村さんです。わたしが三番から四番へ目を動かした瞬間、目の前が真っ暗になりました。 

 わたしは、小さいけれど、鋭く叫びました。すると、闇も低くうなって、目の前から去りました。わたしは、バレリーナのターンのように片足で軽くスイングをし、闇の正体をとらえようと、周囲に視線を走らせました。それは遠くではなく、すぐ目の前でした。

 奥村さんが笑っていました。ものすごく懐かしそうな顔をして立っていました。フィレンツェへ出かける前に用意しておいたこざっぱりしたTシャツを着て立っていました。

 わたしの心臓はボルテージを最高にして演奏するロックバンドのドラムのように、小さな胸を激しく打ち鳴らしました。

 わたしは、彼の体をしっかり。そうです。力の限りを込めて彼を抱き締めました。そうして、少し背伸びをして彼の頬にくちづけをしてしまったんです。彼も両腕のなかに、興奮して震えが止まらないでいるわたしをしっかり抱き締めてくれました。

 わたしは、彼の腕を抱いて病室へ入ってゆきました。リウマチスの老人のベッドは空です。ですから、もう一度、誰にも遠慮なく彼を抱き締め、今度は一回でなく、くちづけの雨を彼の頬へ。そして最後に彼の唇へも無意識を装って降らせました。

 いまは破廉恥な女と思われてもいいんです。昔のような感覚でくちづけをしているわけではありません。ほんとに嬉しくて言葉で言えないからそうしたんです。

 わたしは、彼と並んでベッドに腰を掛けています。フィレンツェの町。心に染み込んだアルノ川の風景。ジオットの草原の聖母。サン ジョバンニ礼拝堂のギベルティの素晴らしい彫刻。わたしは、きょう学校であったことを話したがる子供のように、目を輝かせてフィレンツェでの生活の全てを話しました。

 わたしは、『草原の聖母』の複製画を包んであっだ包装紙を急いで脇にどかし、彼の枕元に立てかけてやりました。彼は食い入るように目を凝らしていましたが、大きく息を吐くと

「マダム シュヴァリエにそっくりだね」

 と言いました。

 何と鈍いまりでしょう! わたしは、彼の肩にそっと乗せていた頭を両手で抱えてしまいました。画家のわたしが気づかないでいたものを、奥村さんはいとも簡単に見て取ったのです。彼にそう言われてわたしも一つ思い出したことがあります。

 ウフィッツ美術館に入り、ルネサンスの名だたる絵画を見て回っていたときです。ジオットの草原の聖母だけは特に親近感がありました。どうしてなのかそのときは考えてもみませんでした。でも、奥村さんに言われて、もう一度ほほ笑まれているマリア様の顔を見て、深くうなずけるものを感じました。

 確かに彼の言うとおりです。

「プリエ ア セント マリ」

 と、わたしに囁かれたマダム シュヴァリエにそっくりなんです。


    九月 某日

「おめでとうございます!」

「ありがとう」

 きょう、奥村さんは退院することができました。機能快復のため、まだまだ努力しなければいけませんが、とにかく退院することができました。

 ときには絶望もし、泣き明かした夜もありました。最入院するときは二〇分もかけて階下まで降りたというのに、きょうは、たったの三分で三階まで上ってくることができました。

 アトリエ代わりに使っているサロンの長椅子に彼を座らせたとき、彼は改まった口調で

「伊達さん、本当に長いこと世話になりました。つきなみな言い方しかできないが、君の苦労に報いるすべもないくらいなんだ」

 と言って、わたしの目をじっと見つめていました。

 わたしは、彼が退院する前から、この日の来ることを恐れていました。退院してしまえば、わたしの用事はなくなるのですもの。きっと彼は帰国するでしょう。

 あれほど、退院するまではゆきがかり上お世話させてもらう、と何回も心のなかでつぶやいていたわたしなのに。それがすっかり変わってしまっているのですもの。

―― ねぇ、これからどうなさるつもり? ――

 たったこれっぽちの言葉が言えないのです。そうたずねることによって、彼が

「ありがとう。あとは帰国してリハに専念するよ」

 と言いそうな気がしてしようがないのです。ほんとのところを言うと、奥村さんはこのアパルトマンにずっといると言ってくれるものと信じ、彼のためにベッドを用意しておいたのです。

 彼は、窓の外に広がるパリの秋空に目をやっていましたが、何か心に決めたように、わたしの目を覗き込んで

「ねぇ、伊達さん」

 と口を開いたのです。

 わたしの体が震えはじめました。きっと、日本へ帰ろうかと思ってね…。とでも言うのでしょう。わたしは、耳を押さえたい心境です。

 わたしは目を閉じました。指を胸の前に組み、心のなかでマリア様に祈っていました。

―― どうぞマリア様、奥村さんをわたしから引き離さないでください。前のようにわがままを言ったりしません。どうぞ彼をわたしの傍らにずっといるようにさせてください。もう昔のまりではありません。マリア様にお祈りもします。教会のミサにもゆきます。 ――

 わたしは、自分がどれほど自分勝手なことを言っているか承知しているつもりです。でも、過去に知った男の人とはまるきり違っている奥村さんに心の全てを奪われてしまっているようです。前のわたしなら

「なんでわたしがこんな男につくさなくっちゃいけないのよ」

 と思ったことでしょう。それが、奥村さんに対してはそんな不遜な気持ちにならないのです。


「ずいぶんと君に面倒を掛けたうえ、こんなことを頼めば失礼になることを承知でお願いしたいことがあるんだ。最後の頼みとして聞いてもらえないだろうか。つまり、ぼくはもうしばらくパリにいたいんだ。それに、君の手を借りなければ、まだ一人で病院通いもできないと思う。一番いいのは、このアパルトマンに空室があれば最高なんだが…」

 と、あとのほうは口のなかでぶつぶつでした。

 わたしは、踊り出したい思いで彼の話を聞いていました。あまり嬉しくって彼が口を閉じて、わたしを見上げていることに気づかないくらいでした。そんなわたしの様子を見て

「それに…。日本へ帰っても待っていてくれる者は誰もいないんだ」

 と、すこしなげやりっぽく言うのです。わたしは

「そんなことを言ってはいけないわ。お父さまやお母さまが心配していらっしゃるに違いないわ」

 と、彼を嗜めるように言いました。けれども考えてみれば、彼の家族のことを全くといっていいほど知りません。カンシューの病院にいたとき

「ご両親にこのことを知らせなくてもいいの?」

 とたずねたとき

「ぼくには家族がない」

 とぶっきらぼうに言ったことを覚えています。

 わたしは、その言葉を本気で聞いていませんでした。きっと、内輪喧嘩の最中にフランスへやってきたくらいにしか考えていなかったのです。ちょうどわたしが見合い写真を母の前に放り出してあの便に乗ったように。

 わたしは、奥村さんの家族がどうなっているかを詮索する前に、ここにいてくれそうな話に飛びついていました。

「狭くても構いませんの?」

 と聞き返しました。

「もちろんだとも」

「それならありましてよ」

「それは幸運だ。で?」

「ここよ」

 わたしは、思いきって跳ね上がって、床をとんと蹴ってみせました。

 彼は唖然としたような顔を上下させているばかりで、わたしの応えに何の反応も示してくれません。すこし心配になり

「ここではおいやですの? それに、わたしでは気も利かないし…。そのうえわがままですものね…」

 と、すこし寂しそうに言ったのです。

「そんなことは断じてない。伊達さんは下手な看護婦よりずっと素晴らしい!」

 と、わたしがほんとにしょげていると思ったらしく、彼は剥きになって言いました。

「ふふふ! でしたらここにいてください」

 そのときの彼の表情を何と言えばいいのかしら…。もし絵にするなら…。今のわたしの筆では表現できそうもないほど複雑でした。

 わたしの申し出を肯定しながら、どこかで拒んでいるみたいなんです。日本に好きな方でも…。そうね、いるかも。いいえ、いたのかもしれない。

 パリに着いた翌日、ブール ミッシュの通りのブティックのウィンドーに飾ってあったブラウスに気を奪われていたんですもの。でも、今の表情には過去の恋物語を懐かしんでいるようではありません。心の底の底に押し込んでしまった辛酸とでも言いましょうか。わたしには想像もできないような苦しみを持っているようです。

「いまは何も言えないが、君の袖に縋るほかないようだ」

 と、わたしの耳にやっと聞こえるくらいの声で言い、更に

「伊達さん、ぼくは男。しかも若者だということを承知して…」

 と言いさし、自嘲ぎみな笑みを口許に浮かべました。

 わたしは、彼の言わんとしていることを即座に理解しました。彼が紳士であるとか無いとか。また、狼のように、わたしの体を貪るなどと考えていたわけではありません。若い男女が一つ屋根の下で生活していれば、憎み合っていないかぎり、たとえ憎み合っていようと、お互いに感情も昂揚していくでしょう。それはそれで構いません。

 わたしは、奥村さんをアトリエのソファに残し、隣室へ飛び込んでゆきました。本当は隣室へ飛び込んでゆく必要もなかったのですが。なぜって、既に奥村さんのために部屋は用意しておいたんですものね。

 わたしは、彼の気が変わらないうちに、もう一度買っておいたベッドを点検にいったのです。何かうたでも歌いたくなるような気分です。

 わたしは新しいベッドの横にひざまつき、さっきマリア様に約束したとおり、両ての指をしっかり組んで祈りました。本当は祈りの言葉もあると思いますが、クリスチャンでないわたしは何も知りません。自分の言葉で心を傾けて祈りました。





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