残照 第8回


森亜人《もり・あじん》



      第8章

 庭のそちこちにたわむれていた早春のやわら陽のぬくもりも消え、夕闇がうす汚れた残雪の上に忍び寄っていた。

 私は、伊達まりの日記から吹き上げてくる人間味ある香りを思いきり吸い込むと同時に、彼女の見たアルノ川の夕闇や、サンタ マリア デル フィオーレの鐘楼の彼方に見た残照とは異質な残照を、西の空に見ていた。

 彼女の見たそれは、輝く明日へと続くものだった。たとえ夕闇が川面を覆っても、明日には太陽を見ることができる。しかし、私の見ている残照は、奥村や伊達まりの帰らざる日々に続くタイムスリップであって、決して太陽を見ることのない日々なのだ。

 奥村の被った現実の死。そして、彼をフランスへと旅立たせる結果となった過去のくるおしいほどの精神的葛藤。私は、彼の経験を笑ったりはしない。いや、一笑に伏すべき事柄かもしれない。

 さて、覚えているであろうか。彼がバルムの洞窟に魅了され、しばらくカンシューの村に滞在すると言っていたことや、私に語ろうとした過去のくびきのことを。そうして、心の乱れを整理しようと自然のなかへ飛び出していったきり、日記の上になかなか戻ってこなかった事実を。

 また、再開された彼の日記の冒頭に疑問を感じた私が、彼から送られてきた荷物を全て開き、伊達まりの日記を取り上げたことなどを。

『家々の窓から漏れる明りが星のように見えている。ペンを取り上げたのは何日ぶりだろうか。』

 私は、この文章の意味が、それまでのものと繋がりのないことに気づき、荷物を解いたのだった。脈絡のない理由も解けた。再び彼の日記に戻ることにする。




 家々の窓から漏れる明りが星のように見えている。ペンを取り上げたのは何日ぶりか。樹間を縫って林の奥へ踏み込んでいったぼくが、数時間どころか、二ヶ月半もさ迷っていたと想像してみてくれたまえ。誰が聞いても首を傾げてしまうだろう。

 ぼくは、パリのアパルトマンの一室で、この日記を再開している。どうしてこんなことになったかは、順々に追っていく。最終的の目的である過去の汚辱に向かってだ。


 林を抜けると、手をつけたことのない荒野が広がっていた。凸凹というより高低の激しい荒野と言ったほうが的を得ていると思う。大地は絨毯を敷きつめたように夏草で蔽われ、たとえ数十センチの凹みがあっても足を取られるまで気づかないほどだった。

 ちょうど野原の半ばまで来たときだった。成層圏のはるか彼方まで見えそうな空の一角に、ぽっと湧いたように黒い雲が立ち上がったかと思うと、成長期にある造山運動のような勢いで、たちまち数十倍の大きさに変貌していった。

 風が騒いでいる。大地を蔽っている雑草が一斉に薙ぎ倒されでもしたように、地面にうつ伏している。その上をうなりを上げて強風が駆けていく。ぼくは前にも進めず、かといって、はるか後方に見える林まで戻ることもできないでいた。

 ひたひたと肉迫する群棲のような黒雲が、野を埋め尽くすまでに何程の時を必要とするであろうか。

 一条の雷光が眼前を掠めた。ぼくは危険を感じ、窪地に身を投げ出した。横なぐりの風に草は薙ぎ倒され、それにつづいて篠突くような雨がぼくを襲った。

 ぼくは、一時間ほど身を伏せたきり動くこともできなかった。雨は窪地に流れ込み、顔を上げていないと溺れてしまいそうだった。自然の猛威の下では、人間など弱いことをつくづく知らされた。

 雷雨の下へ飛び出していったなら、雷の餌食になることは必死だったので、雨に濡れながらもじっと耐えているほかなかった。

 大地を走り回っていた雷も一時間ほどで去っていった。窪地に立ち上がって周囲を見まわすと、空の暴れん坊の踏みつけていった跡が、ところどころに点在していた。頭の上には蒼海より深いのではないかと思われる空が、視界の届くかぎり広がっていた。

 ぼくは濡れ鼠のままテントに戻っていった。林のなかは、葉から溢れ出す雨滴でざわざわと騒ぎ立てていた。ほえ狂う汚濁は、いつもなら川の底で白く光っている砂や石を飲み込み、細い滝もいまは数倍の広がりを見せ、汚濁は川を飛び越えて至るところを川にしていた。

 テントは無事だった。ぼくは、濡れた枯れ枝をどうにか燃やすことに成功したが、少し油断して林のなかへ枯れ枝を捜しにいっているあいだに、火勢は落ち、たちまち白い煙ばかりが吹き上がるだけになってしまった。

 葉の密生している林のなかは、思ったより温度が上がらず、暮色が闇に代わっても、冷えきった体は暖まりそうもなかった。

 夜中だった。

 ぼくは、夢のなかで、ばらばらに砕け散った自分の関節の一つ一つを追って暗い野を走っていた。

 関節は目の前を転がりながら逃げていく。確かに、肩や肘や膝の関節なのに、それを追うぼくの体にも同じ関節がついていた。

 ぼくは、激痛が体内を駆け巡るのを感じた。それでも呻きながら逃げる関節を追って走りつづけていた。

 どのくらい走っていたであろうか。暗い原野の彼方に一条の光が立った。目も眩むような射光に、ぼくは、自分の体の一部である関節を追うことも忘れ、神秘的な光景に目を奪われていた。

 天空から放たれたのか、大地の底から射られたものなのか、射光は激しく地平線を焦がしていた。その眩むような光の渦のなかから

「神は、自然の源の光を創造し、それに時をコンタクトさせたのではないかしら」

 という声がぼくのところまで聞こえてきた。

 ぼくは、その声の正体を見ようと頭を持ち上げた。今では天空に達している光を凝視しようと目を細めた。現実では決して見ることなど不可能な太陽の輝きをだ。

 大地の彼方から、今度は爽やかな鶏の声が聞こえてきた。ぼくは、その鳴き声を夢のなかで三度聞いた。そして四度めの声は目覚めた耳で聞いた。

 全身は高熱に震え、関節の全てが軋んでいた。

 ぼくはテントを這い出した。林は朝の光に極彩色に輝いていた。二歩三歩と足を進めたものの、たちまち腰から崩れるようにその場へ倒れ込んでしまった。ぼくは無防備な体勢のまま、瞬間に死を感じた。なぜなら、林のなかでも最も奥まったところにテントを設営していたからだった。

 こんなところまで村の者が来るとは思えない。村の入口までだって一キロ近くあろう。そこまで歩いていく力はなさそうだった。ぼくは草の上に体を伸ばしてみた。きのうの雨に濡れた草は、熱気に震える体に気持ちよかった。

 木の梢を掠めるように飛ぶ野鳥の姿が、遠い世界のもののように思える。さまざまなことが脳裏をよぎっていく。

 雪の下から掘り出された両親や妹の凍りついた顔。ラグビーでモール状態から抜け出したとき、すぐ横を走っていた田沼の噛みつくような顔。そうだ。ぼくは、田沼に話さねばならないことがあった。火のように燃える頬に草の露が快い。背中を悪寒が走っていく。

 リヨン駅まで送ってくれた伊達嬢は何をしているだろうか。

「奥村さんがパリへ戻ってくるまでのあいだに、スケッチしておいた絵を完成させておかなくっちゃね」

 と言ってほほ笑んでいたが。

 ぼくは高熱のために頭がおかしくなったのだろうか。木の上に猿が不思議そうな顔をしてぼくを見おろしているのを発見した。しかもそいつは帽子を被っていた。人間のような声も発している。

「おららぁ! イヤ アンノム」

『あれまぁ! 人がいらぁ』

 とでも言っているようだ。これがクロマニヨン語なら、人類上、初めてぼくが聞いたことになるのだ。素晴らしい体験だ。考古学をやっていて、こんな幸運に恵まれるやつはおるまい。

 やはり、ぼくの頭が狂っているのだろうか。いや、これはクロマニヨン人ではない。現代のフランス人のようだ。彼の言っている言葉がわかるところを見ても、ぼくは二〇世紀も終わろうとしている時代に生きているらしい。

―― ということは…。ぼくは救われたんだ! 本当に運よく助かったのだ! ――

 偶然としか言えないが、村の者が来てくれたんだ。これで助かるかもしれない。もし、自分に強い生命力さえ残っていたならの話だが。とにかく自分と同じ類に属するホモサピエンスに巡り会えたのだ。もし、自分が同類のホモサピエンスであるなら通じるものがあるだろう。

 十数万年前のクロマニヨン人たちだって、ぼくのような目に合ったこともあるだろう。でも、そのころは自然の脅威の前ではあまりにも無力だったに違いあるまい。猛獣の数も多く、たちまち餌食になっただろう。

 いったい、ぼくは何を考えているのだろうか。猿によく似た男が何か言っている。ぼくは自分でも何を言っているのかわからないことを、その男に向かって言っていた。

 ぼくの意識がはっきり戻ったのは、ベッドの上で、しかも伊達嬢が覗き込んでいたときだった。急いで身を起こそうとしたが、脆くも左半身からベッドに沈んでしまった。

 その後の事柄については、おいおい語るつもりだが、いまは、モスクーの空港で夕日を見ながら心に決めた告白をしよう。

 いまは九月の下旬。バルムにいたときは君のみに告白するつもりだった。ところが何となく事情が変わり、もう一人の人物のためにも筆を進めることになった。

 それは伊達まり嬢だ。たとえ、ぼくの告白を聞いてくれる人が増えても真実を語らなければならない。まして、伊達まり嬢に脚色したことなど言いたくないからね。

 しかし、二ヵ月半に及ぶ闘病生活を重ねているうちに、モスクーの夕日に向かって誓ったとおり、真実をありのままに書き進められるか、いささか不安にもなってきている。





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