森亜人《もり・あじん》
第9章
大学の修士過程を終了した春のことだった。ぼくは恩師に礼を言うため、師の自宅を訪問し、帰路についたのは夜更けになっていた。
郊外の駅に着くころから、窓の外は雨になっていた。春の暖かい雨だった。闇の深い底から沈丁花の芳香がぼくの足にまとわりついてくる。闇のなかに沈んでいる家のたたずまいなど見えないが、頭上にのしかかる気配で、それとなく家の重さを知ることができる。
地を這い、垣を乗り越えた沈丁花の芳香は、ぼくの体を這い上がってきて、大きく膨らめた鼻孔に飛び込んできた。
恩師の家で飲まされたカルバドスに酔っていたのかもしれない。いや、この強い沈丁花の香りに酔っていたのかもしれない。ぼくはアパートにつづく坂を、雨に濡れながらゆっくり上っていった。
二つめのカーブを曲がったとき、細く流れ落ちる雨の糸のなかに、そこだけ白く浮き立つ人の影が、ぼくの酔いに水を浴びせた。季節からして白いものを身に着けるとはずいぶんおしゃれな女だと、ぼくは思ったものだ。
左半身をこちらに向け、静かに降る雨足を見上げている様は、美しさをとおりすぎて、どことなく妖花を連想させた。
ぼくは女のところから十メートルほど離れたところに立って、彼女の様子を見ていた。
―― この雨に傘を持っていないんだな。 ――
そう思ったとき、自分もずっと傘を差していなかったことに気づいた。
ぼくは、いつでも鞄の底に折り畳みの傘を入れてあるのを思い出し、彼女を驚かせないように、少し距離をおいて、傘を取り出しながら声を掛けた。
やはり女は肩を激しく震わせ、足は坂の上に向けたまま首だけをぼくのほうに向けた。街灯の光でも彼女の驚いている様子が手に取るようにわかった。白い頬に、襟に巻かれたスカーフの淡いピンクが映っていた。
ぼくは軽く頭を下げて近づいていった。驚いた様子に比べ、彼女は、ぼくが近づいていっても逃げ出すようなことはなかった。それでも片足を軽く浮かせて、いつでも逃げ出せる形だけは取っていた。
不器用な手つきで傘をひろげたぼくは、彼女の頭上にそれをかざしてやった。何の変哲もない黒い傘だったが、彼女が下に入ったことで、黒い色が嬉しそうに花やいだように見えた。
思い出したように風が吹いてきた。通りすぎた坂の下から沈丁花の芳香が上ってくる。それにとけあうように、ぼくのすぐ脇から、何とも言えない香りがしてきた。ぼくは愚かにも二つの芳しい香りに恍惚となってしまった。
街灯のほの明りが近づく度に、ぼくは破廉恥な行為と知りつつ、彼女を盗み見てばかりいた。長い睫毛の下に隠された瞳は終始伏せられ、一度もぼくを見ようともしない。肩を流れる頭髪のあいだから、街灯の明りを受けるように、ぼくの目を射るようなきらめきが見え隠れしていた。
カーブをいくつ曲がったか、ぼくは覚えていない。沈丁花の香りもここまでは追ってこない。それに、アパートもとっくに通りすぎていた。次第に東京の町が遠くのほうへ退いていく錯覚に、ぼくは夢のなかの放浪者の気分になっていた。
ある角まできたとき、彼女は、足を止めると、初めてぼくの顔を見上げた。そうして、ぼくの心を溶かしてしまうようなほほ笑みを残して一つの門のなかへ走り込んでいった。
ぼくには、彼女が門内に消えていったことも、ここまで並んで歩いてきたことも、つかの間の幻覚のように思えた。
この瞬時の出来事が現実のものであるという証は、彼女の残していった香りだけだった。それも、心を彼女の去っていった場所に残して歩き出してしまえば、次第にうすれてゆくばかりで、自分の手のひらに残るような証拠は何もなかった。
女の面影がぼくの心に根をおろし、日を追うごとにその影は色を増していった。
筑波嶺の みねより落つる みなの川
恋ぞつもりて 淵となりぬる
陽成院
幼い日に妹と取り合ったカルタのなかにこの歌はあった。どの札も母が読むとさわやかな水の流れのように聞こえ、カルタを取ることも忘れて母の口許に見とれていたものだ。
無論、歌の意味など理解していたわけではない。母の口からよどみなく流れ出る言葉の美しさに魅了され、札など見ないで聞き入っていたものだった。
母は読み札など見なくても全てを諳んじていた。母は農家に生まれたが、教育熱心な母親、つまりぼくの祖母になるのだが、その影響を受けてカルタを幼いころから覚えてしまったという。
雨の夜から一週間ほど経た夕暮れだった。ぼくは都心の明りがよく見える駅前の喫茶店にいた。ここへ来た理由は特別あったわけではない。駅前の道路工事が終わり、一日の疲労を癒やすつもりで立ち寄ったまでだ。
疲れた体に温かいコーヒーを流し込んでいると、夜目でもすっかり記憶してしまったあの女が入ってきた。ぼくの驚きは想像を絶するものだった。
諦めかけていた女。それでも忘れられないでいる女。それも偶然なんだ。これを神の導きと考えないで、何と考えればいいんだ。ぼくは思わず立ち上がろうとして、テーブルに足を取られてしまった。
女は少し目を細め、ぼくの顔をじっと見ていたが、ぼくが誰であるか思い出したらしく、にっこり笑うと、左の手に持っていたハンドバッグを胸に抱き直して、楚楚とテーブルに近づいてきた。
女はぼくの前に立ち、けむるような微笑を目許に浮かべ、あの夜の礼を聞き取れないほど小さな声で言った。
ウェイターが氷を浮かせた水を運んできて相席した女の注文を聞いた。彼は、彼女の注文を聞きながら、無遠慮な目つきでぼくの顔を見ていた。無骨な男と魔性とも思われる女との関係を、つい詮索したくなったのかもしれない。
ぼくは不愉快さを顔に出さないように、店の奥へ去っていったウェイターの背に憤りの視線を投げつけてやった。
白い扉の向こうに消えるまで見ていたぼくは、百八十度心変わりした視線を、前の席で静かにほほ笑んでいる女の上に置いた。
あれほど彼女の魅惑さに翻弄されて輾転反側したのに、偶然に再会できた今、ぼくは話す言葉もなく、コーヒー茶碗から立ち昇る香りを吸っているばかりだった。
「あなたはずいぶん無口な方なんですのね」
ウェイターが彼女のためにコーヒーを運んできてすました顔を奥に引っ込めると、女は初めて口を開いた。
「済みません。何を話していいかわからないものですから…」
ぼくは額に浮いてくる汗を手の甲で拭いながらそう言った。
女は長い指を口許へ持っていった。
ぼくは彼女の笑いを誘うようなことを言ったのかと、口のなかで繰り返してみた。そんな覚えはないが、彼女に笑われたことですっかり動転してしまった。
「あなたって面白そうな方みたいね」
女は、うろたえているぼくを救うように、コーヒーをほんの少し啜ってからそう言った。
ぼくは、『面白そう』と言われたことを、喜ぶべきか、悲しむ内容なのか苦慮しないでもなかったが、とにかく、彼女が屈託のない笑いを見せてくれたことで、すっかり肩の力が抜けた気分だった。
ぼくは彼女の言葉に勇気を得て
「あなたのお名前は」
とたずねた。
「えっ。何かおっしゃいましたの?」
彼女は、心をよそに向けていたのか、力のない声で聞き返した。
「あなたのお名前です」
「あぁ、わたしの名前ね…」
女は、『あぁ』という二文字に名状しがたい悲哀を込め、それにつづく言葉には何の色もないような口調でそう言うと、長い睫毛を伏せてしまった。
ぼくは彼女の声のなかに、『またか』というやりきれなさを感じ取った。
女は、世の男どもが、世の女性に示す興味本意の問いに、少なからず辟易させられてきたのだろう。それでもぼくの問いに応えなければいけないと考えたらしく
「飯窪と言います」
と、大儀そうに言った。
ぼくは、彼女が聞きもしないのに身を乗り出すようにして
「奥村隆夫と言います」
と名乗った。
彼女は、当惑とも迷惑ともつかない微笑を浮かべると
「あっ、そう…」
とだけ言って、コーヒーのカップに手を添えて、口許に曖昧な微笑を浮かべただけだった。
彼女の言い方は、身を乗り出していたぼくの胸のなかを吹き抜けるように、どことなく捕らえどころのないものだった。
翌日は朝から爽快な気分で道路工事の現場へ出かけていった。ツルハシで土を抉り、トラックで運んできた砂利を平らに広げ、その上にアスファルトを流し込む。少し進んで土を抉り、砂利を広げ、アスファルトを流し込む。これが一つのパターンで、昼までつづき、夕暮れまでつづくのだ。
怒鳴る声。それに応酬する声。水と砂とセメントを混ぜ合わせる機械の音。ぼくは朝から日没まで、汗を流して働くのだ。ドヤ街からその日の金を得るためにやってくる浮浪者もいれば、交通事故で夫を失った女もたくましく働いている。
そのときどきに組まれるメンバーによって、むしろいないほうがいいような者もいた。今回も組に入ってきた若い女もそのような類の女だった。今もトラックの上から男に怒鳴りつけられていた。
ツルハシを上手に使っていた鬼瓦のような顔をした中年の女が、持っていたツルハシを投げ出し、山積みされている砂利の前で涙を拭いている若い女の背を軽く叩きながら
「あんたの出来る仕事じゃないよ。あそこの凹凸を直してな」
と言っていた。
「くそババー! 何をしてやがる。さっさとやれ!」
「なに言ってやがんだい。大層な口を利く暇があったら、てめえが降りてきてやったらどうだい。この横着ジジー!」
と言い返す。
誰もが激しく言い合うが、どの顔も汗の玉のなかで笑っているのだ。この口調が道路工事に拍車を掛けるらしい。
「そこの若いの、手伝ってやんな」
ドスの利いた声がトラックの上から降ってきた。溝のなかから顔を上げると、ヘルメットを横っちょに被った現場監督の大きな目玉がぼくを見おろし、指先は土まみれの顔を、汚れた手でこすっている女を指していた。
ぼくは反射的に膝の上まである溝から飛び出し、若い女のところへいった。彼女のツルハシを受け取ると、山のように積み上げてあった砂利をたちまち平らにしてやった。女は、勢いよくツルハシを振り上げているぼくの横に立って
「ごめんなさい。ごめんなさい」
と謝ってばかりいた。
ぼくは彼女の上品な言い方のなかに、今までの生活の一端を見る思いがした。駆け落ち同然のようにして結婚した彼女には頼る縁者もなく、三歳と一歳の子供を、こうして養っていると、昼食のときに、鬼瓦のような顔をした中年のおばさんと話しているのを聞くともなしに耳にしていた。
ぼくはこの二人の女の人と、三人の男とチームを組み、きょうと明日は目黒。明後日は新宿と、場所を移って道路工事をしていた。
ぼくは昨夕の余韻が冷めないうちに、喫茶店で会ったあの女と会う約束をしておいた。作業が終わるとアパートへ戻り、自分では一番上等と思っている服に着替えて夜の新宿へ出ていった。
彼女と約束した喫茶店へ着いたのは、繁華街のネオンの色も増したころで、盛り場に人が群れる時刻だった。
ピアノの音がしていた。店内はほぼ満席だった。ぼくは薄暗い店内を透かすように彼女を捜した。
彼女は、奥の席にいた。小さく手を振っていた。ぼくの目には彼女の姿しか映らなくなっていた。そう広くもない店だったが、彼女のいるテーブルまでがひどく遠い距離に感じ、思わず並んでいるテーブルの角に腿をぶつけてしまった。
ぼくは彼女を促し、テーブルの端に置いてあったレシートを掴むと、挨拶をする時間も惜しんで外へ出た。そうして、ここへ来る前に立ち寄って予約しておいたレストランへいった。
テーブルを挟んで向かい合った二人は、きのうより口数が増していた。ぼくの心は彼女のことで満ちるばかりだった。ラグビーと、土を掘り返し、数万年、数十万年、いやいや、数千万年も昔のことにしか興味を持たなかった自分だったのに、フォワードを組んでいた田沼が知ったらどんな顔をするだろうと、ワインに頬を染めている彼女の横顔を見ながら思ったものだ。
―― 飯窪のり子…。何と素晴らしい名だろうか! ――
笑われるかもしれないが、ぼくにはこの名が世界で一番素晴らしいように思えた。
彼女の一つ一つの動作にぼくは感動し、ますます彼女に心を奪われていった。
忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は
物や思ふと 人の問ふまで
平兼盛
百人一首のなかに納められているこの歌の意味など考えも及ばなかった当時。いまはぼくの心の底にぶつかってくる。しかもかなりの痛みを伴ってだ。自分ではどうしようもない感情に、武骨もののぼくはただただ戸惑うばかりだった。
ナイフを美しく操る手。フォークに絡ませた白い指。ワイングラスを口へ運んでいったしぐさ。そっとぼくの表情をすくい上げる妖婉な瞳に、ぼくは酔いしれてしまった。
時が流れるほどに、ぼくの心の底から一つの思いが湧き立ってきた。『彼女の全てを知りたい』彼女の全てを自分のものにしたいという男の熱い情念だった。
その思いは、初夏から夏に季節が移っていくように、ぼくの心のなかで徐々に増していった。決して自分の志を疎かにしているつもりはないが、飯窪のり子の姿が目の前にちらついてくると、たちまちどうすれば自分の思いを彼女に伝えることができるのだろうかと考え込んでしまうのだった。
ぼくたち二人は週に一度だけだったが、夜のネオンの花が咲く新宿や渋谷の繁華街を巡り、特にフランス映画を好んで見た。
ぼくにとって、別にフランス映画でなければいけないというわけではなかったが、ある程度のフランス語にたいする知識があったので、彼女への優越感も手伝ってそんな行動を取っていたのだろう。
そして、うっとりとした気分を持続させるために、気の利いたレストランや喫茶店で時を過ごし、少しでも長い時間彼女と共にいることばかり考えていた。
男の情念が彼女の姿態を求めても仕方のないことと、自分を許していた。恥ずかしい話だが、ぼくは彼女を抱く夢を見るようになった。果たせぬ快感を自らの手で行うなんて破廉恥きわまりないことくらいぼくだって承知している。だが、彼女の姿態が、彼女の放つ芳しさが、ぼくを究極まで追い込むのだ。
彼女への恋慕は、熔鉱炉のなかでふつふつとたぎる灼熱の鉄と化していた。どこにいても目の前に彼女が現われる。スコップで掬い上げた赤土のなかにも、ぼうぼうと生い茂る雑草の影にも、純白な一輪の花のように彼女は、存在していた。
ぼくはこの激しい情念のはけ口を求めるように、くる日もくる日も身を粉にして働いた。手を休めれば彼女への思いで胸が締めつけられ、燃える太陽の下にいても震えてくるほどだった。
ゼウスのような力が欲しい
ゼウスのように白鳥と化したい
ゼウスのような勇気が欲しい
レダの寝所を襲い
レダの媚態を求め
レダの懐の内で溺れたい!!
おぉ! この名状しがたい恋情を
いかにして流露すべきか
日は徒に流れゆき
月は徒に満ち 欠けてゆく
ゼウスのような勇気が欲しい
レダの媚態を求め
恋慕の火口で彼女を焼きつくしたい
実際、ぼくは異常だったと思う。土を掘り返したり、泥だらけの塊を、宝石でも扱うように研究所へ持ち帰り、いそいそと薄い箆の先で土を削り落としていくことにしか興味のなかったぼくが、一人の女にこれほどまで心を奪われ、自制心をも失ってしまったのだ。
夏、ナンバー8の蹴ったハイパントを追って、敵陣になだれこむ練習を繰り返してもこれほど汗は出なかった。敵のフォワードの突進を防ぐために、相手の腰へタックルして、振り飛ばされたとき、つい悔し涙が頬を伝わったときでさえ、自分の弱さをこれほど認識しなかった。
だというのに、ぼくは水の供給を遮断された無人島の人のように、自分の乾きをどうすることもできないでいた。
装いも刺激的な夏がやってきた。
ぼくは彼女を誘ってある浜へ泳ぎにいった。蒼海の水平線上をかすめるように、白い帆をいっぱいに孕ませたヨットが見え隠れしている。
ぼくは人のざわめきから離れた岩陰に足を投げ出し、打ち寄せる波に身を任せながら、沖をいくヨットに見入っている振りをしていた。
ぼくの目は、額に濡れ落ちてくる頭髪の間隙をとおし、横に座っている彼女に注がれていた。愛とは何であろうかなどとこむずかしいことを考えてはいない。だからといって、彼女の肉体の隠された部分のことを想像していたわけでもない。
ぼくは沖をいくヨットの白い帆が蒼海の果てに消える前に自分の心の内を彼女に語ろうと決めていた。そのヨットの帆も波の上に先端を見せるだけになっていた。ぼくは目を閉じ、大きく深呼吸してから目を開いた。
ヨットは巨大なジャッキに押し上げられるように帆の先端から徐々に持ち上げられていった。やがて全体を現わすと、空のただなかへ浮き上がっていった。
ぼくは予感した。次の波が打ち寄せてくる前に、ヨットは視界から消えるだろう。風に帆を孕ませた姿を見ることは永久にないだろう。今、自分の心の内を彼女に語らねば、ヨット同様、彼女は、ぼくの手の届かないところへ運び去られてしまうのだ。自分にそう言い聞かせても胸のなかで煮えたぎっている思いを言葉にすることができないでいた。
ぼくが予感したとおり、風を孕んで進んでいたヨットは水平線上に二度と姿を現わさなかった。苦熱に似た感情を彼女に吐露したのは、闇のなかに水平線も没し、月光に波頭が銀色に染まりはじめるころだった。
波とたわむれる月光に涼しい視線を向け、ときおり、顔の前に飛んでくる小虫を指で追っている彼女に、ぼくは顔を向けた。
ぼくの舌は自分の意思に逆らい、脳性小児麻痺の子が自分の意思を伝えようと、全身に力を込めて語るのと同じに、舌と言わず、手と言わず、どこもかしこもこちこちになっていた。
ぼくは脳裏に残っているヨットを現実に見ているつもりで、目の端に白い帆をとらえながら、彼女への思いを告白した。
「どうして…。どうしてそのような感情をわたしに…? あなたは、わたしの素性を知らないから。確かに、あなたは男らしくたのもしいと思いますわ。でも、わたしを愛するなんて少し異常ではないかしら」
波の上に魚が踊り上がる度に、銀鱗が月光にきらめく。遠く近く砂浜に火が燃えている。人の影が火を遮る度に、赤く燃え立つ前に闇が浮かぶ。風に乗ってハワイアンの曲が聞こえてくる。ぼくたちのいる場所は、三方が岩で囲まれ、緩やかに湾曲した対岸は遠い。
「そんなことはない。前からずっと思いつづけていたんだ」
ややもすると、ふっと消えてしまいそうになる彼女の印象をかき立てながら、ぼくは彼女の冷たい手を握り締めてそう叫んだ。
「ならあなたは、あなたはわたしの全てをご存じですの?」
正面きってそう言われると返す言葉もない。だが、ここで言い渋っていたら
「ほらごらんなさい」
と言われそうだったので、彼女に先を越されない前に
「もちろんさ! ぼくは君の全てを知りつくしているし、君の全てを愛しているんだ」
と叫んだ。
―― ぼくは彼女が欲しい。彼女の全てが欲しい。 ――
この一念で、ぼくは彼女の膝を抱き締めた。
月光の下で彼女の肌は青白く染まっていた。波が彼女の足を濡らしている。ときおり、波が腿の上まで這い上がってくることにも気づかない風情で、彼女は、沖に目を据えていた。
彼女の唇がかすかに震えていた。その唇は『すべて』と言っているようだった。ぼくは自分の心にけりをつける意味も込めて
「そうだとも! ぼくは君の全てが欲しいんだ」
と言った。
「ほんとに全てを、ですの?」
彼女は、声を震わせて細々と言った。
もう言葉など不必要だった。ぼくは募ってくる情念に身を任せ、彼女を抱いた。毎夜のように彼女の名を口にしながら身を焦がしつづけてきたぼくだ。彼女の抵抗など、ラグビーで鍛え上げたぼくには何の妨げにもならなかった。
彼女は、片手をぼくの胸に這わせながら、それでもためらう気持ちを捨てきれない態度で、ぼくの体を押した。
「待ってください。ねぇ、わたしの話も聞いてください。ほんとにのり子のことを知っていらっしゃるのなら、いつでもわたしを差し上げますわ」
野獣のような獰猛さで彼女の肉体をむさぼろうとするぼくの腕の下で、彼女は、喘ぐように言った。
今や、ぼくは悪鬼になっていた。冴えわたる月光も見えなければ、銀色に散る泡沫も見えていなかった。
ぼくは彼女を砂の上に押し倒し、彼女の唇を求めた。薄く冷たい唇は、ぼくの狂気じみた歯列のあいだで震えていた。彼女は、首を激しく振り、ぼくの圧力から逃げるように抵抗を重ねていた。ぼくにとって、彼女の動作は欲情を募らせる何ものでもなかった。それでも彼女は、身をくねらせ、柔軟な腰をくるりと返すと、ぼくの燃える体の下でうつ伏せになった。
彼女は、激しく身を寄せていくぼくの股間に指を滑らせてきた。ぼくは彼女の誘うままに身を任せた。
いつ潮が満ちてきたのであろうか。夏の暖気を充分に含んでいる波がぼくの腰の辺りを洗っていた。感動の予韻が潮流のように去っていく。きょうまで夢に何度も見た彼女の肉体の歓喜。
恋しい女を征服した充足感は、彼女の甘い香水の香りと共に、ぼくを包み込んでいた。
ぼくの運転する車は猛烈な勢いで深夜の国道を走っている。
ぼくは死んでもいいと思っている。思っているから百数十キロのスピードで走っている。前方は針のメドのようだ。ぼくはその穴へ突っ込むつもりでアクセルを思いきり踏んでいる。
車体が宙に浮いているように感じる。対向車のライトと警笛が掠めていく。まるで流れ星の集団のように見える。ぼくは逃亡者だ。罪を犯した者のように、無限の闇に向かって逃げていく。
全身の神経を目玉に集中させ、アクセルを踏みつづけている。誰も乗っていないはずの後部座席から、あのうす君悪い笑い声が聞こえてくる。恐怖が背筋を走り、脇を冷たい汗が下る。
ぼくは本当に死んでもいいと思っている。思っているから車を飛ばしている。この名状し難い感覚を説明するより死んだほうがましのように思える。
ぼくは冷静のつもりでこれを書いてきた。充分な思考をもって語れると思っていた。ところが、己に対し怒りが込み上げてきて、このままペンを放り出したいほどなんだ。
サン ジェルマン大通りのブティックに見たブラウス。白地に淡いピンクの細かな花が胸元に群がり咲いているあれだ。彼女は、あれによく似たブラウスを好んで着ていたんだ。初恋の甘く狂うような感動の末ではない。忌まわしい痛恨の記憶なんだ。
あの女は、半ば顔を上げて言った。
「あなた、今度はわたしに貸して…」
女は起き上がると、陶酔のなかで息を弾ませているぼくの体を横に押し倒し、背中に乗ってきたんだ。そのときぼくは見た。のり子の股間にもぼくと同じ物が挑むように突き出されていたのだ。
飯窪のり子はぼくと同じ性を持っていた。目をぎらつかせ、どこにこれほどの力を潜めていたのかと思うほどの腕力で、このぼくを襲ってきた。
ぼくは見境もなく彼女を投げ出し、海水パンツを引き上げながら岩を飛び越えて逃げ出した。逃げるぼくの背に、浮薄な笑いと、「のり子にも貸して」という声がどこまでもまとわりついてきた。
ぼくが夢中でアクセルを踏みつづけている気持ちを理解してくれるだろうか。恋は盲目とはよく言ったものだ。自分で自分を嘲っている。男と女の区別もつかないなんて、まるでソドムとゴモラの男色を実行していたようなものだ。
このときの行為の結果として、ぼくは大きな代償を払うこととなった。つまり、精神的不能者だった。
忌まわしい経験は、ぼくから一切の色欲に繋がる行為を奪った。天罰としか思えない。ぼくのような人間は、不能者になるのが一番適当なのかもしれない。それでもいい。だが、エイズだけは困る。病院へいったところで、簡単に調べがつくものでもない。たった一回だからという思いが働き、それを打ち消す理性が、弱くなっている精神を蝕んだ。
ぼくが不能者になったことを完全に知ったのは翌年の春だった。
君は覚えているだろうか。初夏の野辺山の旅情を楽しみに出かけていった日のことを。
林の木陰に座って
「田沼、女ってどう思う」
と聞いたろう。
君は面食らったような顔をしていたっけね。のり子とのことがあってから十ヶ月も経たころのことなんだ。
あの三月、ぼくは自分の不能を知ったのだ。
ぼくは地質考古学の同期生会に出席した。久しぶりの顔に、誰もが飲みすぎていた。どの男たちも本質的に自制心を失っていたのかもしれない。酒を飲めないぼくだけが、彼等より幾分なりと理性的だったと思う。
彼等は、抵抗するぼくの両脇から抱き上げ、むりやりソープランドへ連れていったんだ。男女の区別もつかないほどの恋をしたぼくは女のことを思っただけで、吐き気を感じた。
彼等は一つの部屋にぼくを押し込むと、それぞれの女のところへいってしまった。
ぼくの顔を見上げている女は、肉感的で、もじもじと立っているぼくに興味を覚えたらしく、身を寄せてきた。いや、ここでは興味を持とうが持つまいが、関係なく身を寄せてくるのだろう。
ぼくは逃げ腰だった。狭い室内を女に追われて逃げ歩いている姿を想像してくれたまえ。そんなぼくをどう見たのか知らないが、女はぼくを椅子に座らせ、自分は少し離れた床に膝を立てて座り、下からぼくを珍しいものでも見るような目で見上げていた。
大きな目。短く刈り上げた髪。愛嬌のある鼻。肉感的な体からは、男を誘う妖婉さなど微塵も感じられず、むしろ田舎の広々とした大地に働く女たちの健康的なたくましさが発散していた。
女は、決してかしこそうでもないが、世渡り上手のようにも見えない。たぶん、ぼくと同じ年ぐらいだろう。ぼくがそんなことを考えていると
「あんたって子供みたい。こんな場所へ来たの初めてなのね。女を抱いたことないの。ここへ来る男たちは獣みたいに襲ってくる者もいるわよ。自分でも逃げ出したくなること、いくらでもあるわよ。あんたみたいな人に会ったの初めて。あんたっておかしな人ねぇ」
と、女は一方的に話しはじめた。
ぼくは黙っていた。女を色欲の目で見ようとすると、それだけで吐き気が喉を突き上げてくる。手のひらに形よい顎を載せている女を、太陽の元で働く女と見れば、そこに健康的な女を感じ、ぼくの心は沈まり、肉体の奥にうずくものがある。
女の目は、客を迎える女ではなくなっていた。女はとつとつと話しつづけた。ぼくの心の内など知るはずもなく、赤い唇をしきりに動かしていた。
ぼくの脳裏から飯窪のり子の姿が消えた。目の前にいる女のたあいのない話を聞いているうちに、ぼくはいつの間にか男になっていた。女が手を貸してさえくれれば、全裸になっても男でいられるように思えた。
女の目が、女を意識しはじめたぼくの顔から滑り落ち、直角に曲げられている体の底部にぶつかった。
女の視線が指先のようにGパンのチャックに絡みつき、何の抵抗もなく押し下げられていく。厚い生地を貫いて女の指が入ってきたと意識した途端、ぼくは羞恥心のために全身が萎えていった。
女は腰を浮かせると、視線ではなく直接ぼくに触れてきた。だが、女の指が絡む前に、精神の萎えと同様の萎えが肉体の部分で起こっていたのだ。
女は、生命を失ったぼくを手のなかに握り締め、下からぼくを見上げていた。そのうちに、最初は聞こえないくらいの声で笑っていたが、やがて、個室の壁にぶつかり合うような声で笑い出した。
「あんたは不能者だったの? それも、よりによってこんなところへ来たのね。可哀そうな坊や」
女は、すっかり萎縮しているぼくの股間を爪の先で弾きながら、さも気の毒そうに言うと、声を更に高めて笑うのだった。
野辺山の旅情を楽しんでいるとき、君に突然たずねてみたくなって、つい聞いたのだ。西洋草花にオジギ草というのがある。葉に触れるとたちまち萎えてしまうやつだ。正に、ぼくはオジギ草になってしまったんだ。
田沼、君と妻 ―― 当時は伊達嬢だったが ―― に語ったあの九月末のアパルトマンの日々から既に八年も経ってしまった。
ぼくは日記帳を読み返している。屈託していた感情を率直に書いたつもりだった。八年の歳月はぼくの心情を別なものにしてしまったようだ。
飯窪のり子との関係は、大いにぼくを翻弄した。しかし、日記帳を読み進んでもらえばわかると思うが、その後のぼくは幾つもの波涛を乗り越えて全てを払拭したと思う。それも全て妻となった伊達まり嬢のお蔭なんだ。もうしばらくぼくに付き合ってくれたまえ、田沼。
こんなに書いてきたのに、日本を逃げ出してからまだ三ヵ月しか経っていない。八年の空白を埋めるとしたら、膨大な量になるはずだ。しかし、まりと結婚してからのことは、詳細に書く必要もあるまい。彼女と結婚するまでの葛藤と、彼女との離別について君に語る義務がある故、濃縮して書くことにしよう。
私は、心身に疲労を覚えた。
奥村が野辺山の落葉松林のなかで言いよどんでいた真意を知って、彼のいっていた愚行を笑うどころか、自分の友情の薄さに私憤を感じないではいられなかった。
あのとき、奥村の口から聞き出していたら、この問題で彼をこれほど苦しめさせないで済んだかもしれない。いや、たぶん無理だったろう。今であるからこそ、時の流れがそう言わせてくれるのかもしれない。
私は、彼の経験に、ある種の興奮を覚えた。
人類が文化を持つようになったころからだろう。俗に言うところの『少年』。いつの世もそのような男がいた。女よりも妖婉な男は、女にならねば生きていけないのかもしれない。だが、他方から言えば、女になりきれる男は勇気のある男と言えないだろうか。
そんな男の怪しいほどの妖婉さに騙された奥村の心中を思うとき、彼が男のうちでも武骨であったことを知っているだけに、彼が哀れでならない。武骨ゆえに受けた衝撃も激しかったのであろう。
心を寄せていった相手が実際は男だったと知った衝撃を想像することは難しい。奥村は生まれて初めて恋をしたのではないだろうか。夢に見るほどの恋に、彼がどれだけ苦しんだか私には想像できる。
ソープランドの女や伊達まり嬢を男と思っていなかったであろうが、飯窪のり子によって受けた驚愕は、彼の心にトラウマとして永い時間くすぶりつづけたのかもしれない。
その奥村が伊達まりと結婚することになった経過を私は知りたい。彼女が男というものを全く知らない女だとか、神に献身的に仕える女だというのなら理解もできよう。だが、彼女の日記にも書いてあったように、彼女は、決して純潔だったとはいえない。むしろ、逸楽的だったように思われる。
その彼女が奥村と結婚し、彼の不能をどのように理解したのであろうか。男を知った女が、奥村との生活に満足していたとは思いきれないのだ。
ローマで離別したというからには、伊達まりのほうから去っていったに相違あるまい。もしそうだとすれば、彼女も奥村の抱えている苦しみを理解できなかったのだろう。放埒な精神がときにふれ折りにふれ、二人のあいだに顔を出したからかもしれない。
私は、改めてアルバムを取り上げた。
奥村と伊達まりが幸福そうに写っている結婚式の写真。ローマのトレビの噴水のところで撮った写真。どの写真にも彼女の表情に不満めいたものは現われていない。
私は、彼女が奥村のもとを去った真相に言い知れぬ興味と、行き倒れた彼の様子から判断して、思わずページを閉じてしまいたい感慨に息の詰まる思いにさせられた。
もし、伊達まりが奥村の元を去っていったとしたなら、どうして彼女の持ち物のほんの一部分かもしれないが、画家として手元に保持しておきたいはずのものを奥村のところへ置いていったのだろうか?
絶対に彼の元に置いていくはずのない彼女の日記など、奥村の手元にあること自体が不可解といえるのではないだろうか。
私は、室内の暖房を強め、彼が送ってよこした荷物を自分の座っているソファの周りに運んできて、二人の日記を取り上げた。
私は、二人の新たな生活の開始と終了を物語る前に、一つのことに触れておこう。
残照は自然界の現象のうちでも数奇な部類に入るのではなかろうか。夕映えも良かろう。烈日に焼かれた白砂の輝きも良かろう。朝、山の端から昇る太陽の色も良かろう。月光に浮き出された墨画的な陰影も良かろう。
だが、私は、伊達まりの感覚で捕らえた残照を好きになってしまった。この数奇ともいえるひとときこそ、奥村たちの八年間だったと思う。
惜別が全て悲しい事実ではないことを私は言いたい。彼の便りの冒頭にあったように、彼が帰国の意思を固めたときは、伊達まりと暮らしていなかった。だがそれは、彼の不幸、彼女の不幸に繋がるとは限らない。
私はそう信じて、彼等の残していった日記帳を取り上げ直した。