二階堂為氏の岩瀬郡下向
 
        二階堂為氏の書状(長禄寺所蔵)
 珍味一壺と酒一瓶を送ってくれたことを感謝し、 貴意に
 任せて指し進ぜ申し候とあるが、意味は不明。

戦国大名二階堂氏で確実にその先を辿れるのは、二階堂為氏までである。

「藤葉栄衰記」によれば、当時二階堂為氏は鎌倉に居住していたが、須賀川城に派遣していた代官二階堂治部大輔が田祖を私し、鎌倉の意向に従わなくなったので、為氏自ら岩瀬郡に下向して治部大輔を討伐したように書かれている。
 
 その要約は、文安元年(1444)三月七日、二階堂為氏は四百余騎の軍勢を率い鎌倉を発ち、六日後の三月十三日に岩瀬郡に到着し須賀川城入城を試みるが、治部大輔方は各門を堅め攻めてきた。

 為氏方は、このまま戦えば不利なことは明らかであったので、一時和田村に陣を引くことになり両者は対立したまま年を越した。

 翌年、治部大輔は自分の娘三千代姫を為氏に嫁がせ和睦することを申し込んできた。

 さらに、三年後には城を無事に明け渡し隠居することを誓約したので為氏はその言葉を信じ和睦が成立した。

 輿入れの儀が行われたのは同じ年の五月十日で為氏十五歳、三千代姫十三歳であったという。

 しかし、約束の三年が過ぎても治部大輔は一向に城を明け渡す気がなく、このことを憂えた家臣達は相談し、為氏に三千代姫を離縁し治部大輔を討伐すべきであると進言した。

 かくして文安五年(1448)、軍大将須田美濃守秀一の指揮のもと須賀川城攻めを開始した(別書に文安三年のことともいう)。

 戦いは激戦を極めたが四日後に治部大輔が城に火を放ち自刃して終わったというものである。

 一方、為氏下向に関して「藤葉栄衰記」の野川本の内容は他の本とかなり異なる記述がある。

「永享の乱」で関東以西の本領を失った為氏は、わずか三騎のみで須賀川に辿り着いたが治部大輔に入城を拒まれ、半年あまり稲村の普応寺に潜居していた。

 困窮した為氏は岩瀬郡の有力な国人であった和田城主須田美濃守秀一を頼り、彼の助力のもと須賀川城を回復したように書かれている。
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