二階堂為氏が須賀川城を修築して入城したのは、その年の十二月三十一日であったという。

 翌日の正月には門松を飾る暇もなく新年を迎え、このことが嘉例となり二階堂氏の家臣の家々では正月に門松を立てず注連縄を廻しただけで新年を迎える者が多かったという。

 私は、この為氏の岩瀬郡下向に関して、「藤葉栄衰記」の記述に多くの疑問を持っている。
二階堂治部大輔は本当に為氏の一代官であったのか。

 当時、鎌倉は応永二十三年(1416)の「上杉禅秀の乱」、永享十年(1438)の「永享の乱」の結果荒廃しており、鎌倉府という支配機構も永享十一年の鎌倉公方足利持氏の自害によって崩壊しているわけで、鎌倉府の官僚であった二階堂氏が鎌倉に居住し無事に過ごせていたのであろうか。

 私は、この戦いは岩瀬郡内の覇権をかけた二階堂氏族内の抗争ではなかったのかと考えている。 須賀川城の治部大輔は為氏の一代官ではなく行光系の有力な二階堂氏で、これと戦った為氏は行村系の二階堂氏ではないかと推測している。

 その根拠と言われても困るが、第一には「為氏」という名乗りである。
「氏」の字は、鎌倉公方からの「一字拝領」と考えるのが、もっとも妥当ではないだろうか。
足利持氏・成氏父子と関係が深い二階堂氏族といえば、行村系の稲村二階堂氏が一番にその名が挙がるであろう。 
 ただ、二階堂為氏が元々京都に在住していた二階堂氏で、鎌倉公方足利成氏の鎌倉下向に従って来たという事実があれば、行光系同士の惣領家をめぐる戦いという構図も成り立つかとも考えている。

 第二には、「藤葉栄衰記」の野川本にある次の記述である。
 須賀川城主二階堂治部大輔に入城を拒まれた二階堂為氏主従は、稲村の普応寺に半年余り潜居したという件である。
 この記述からすると、稲村二階堂氏はすでに滅亡し、その居城稲村城も破却されたと推察できるが、その稲村を潜居先に選んだということは、為氏が稲村二階堂氏と何らかの血縁関係にあったと考えられずにはいられない。

 第三には、二階堂為氏の叔父浜尾民部大輔の本貫地とされる伊豆国懐島の浜の尾が、相模国懐島の誤りであれば、浜尾民部大輔、その甥二階堂為氏は行村系二階堂氏の可能性が高くなる。

 私は、「藤葉栄衰記」の治部大輔が為氏の代官であったという話は、為氏の子孫が須賀川城を居城とするための正統性を主張するために作られた話ではなかったかと考えている。 

 また、文安四年(1447)に足利持氏の遺児成氏が鎌倉公方に就任しているが、このような政治情勢の変化も、この問題を考える上での忘れてはならない重要な要素と考えている。

 何れにしても、須賀川二階堂氏が岩瀬郡内の諸豪族を服属させ、戦国大名として発展する素地を築いたのは為氏である。

 このことは為氏が発給した軍忠状などを見ても明らかのように、為氏が岩瀬郡以外の地へも頻繁に軍勢を出していることからも伺い知れる。
 
三千代姫の悲劇
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