二階堂為氏から離縁状を渡された三千代姫は、須賀川城へ送り返されることとなった。これを伝え聞いた二階堂治部大輔は激怒し三千代姫を送ってくる和田勢を一人残らず討ち取れと下知した。

 途中で待ち伏せされているとは露知らない和田勢は、涙橋という所で突然攻撃を受け命辛々逃げ散った。和田勢は敵の攻撃を避けどうにか岩間の暮谷沢という所まで引き上げてきたが、もはや須賀川に進むことは叶わないと考えた和田勢は、気の毒ではあるが姫の輿をこの地に置いて帰るより仕方がないと考え姫の輿を置き去りにして和田に帰ってしまった。

 置き去りにされた三千代姫は世を儚みこの地で自害して果てた。付侍の岩桐藤内左衛門と乳母などがこれに殉じた。
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人問はば岩間の下の涙橋
流さでいとま暮谷沢とは
行きぬれば心の月の雲はれて
光とともに入る西の空
 この話には後日談があり、左記のような辞世の歌を詠み自害した三千代姫は、為氏が須賀川城を回復すると夜な夜な為氏の枕元に現れるようになった。

 為氏はそのため心身ともに弱り病に臥してしまう。

心配した家臣達は三千代姫の霊を鎮めるため社を建立した。

和田の姫宮神社が建てられた由来がこのように伝えられている。