二階堂氏の一門・一族について
矢田野氏 岩瀬郡矢田野村(須賀川市長沼大字矢田野)に居住し、矢田野氏を称したと考えられる。天正十七年(1589)伊達政宗の須賀川城攻めのとき、矢田野伊豆守隆行と矢田野右近秀行は須賀川城に籠城、矢田野安房守義正は居城矢田野城に籠城する。須賀川落城の翌年矢田野安房守義正は大里城に籠城し伊達政宗に最後まで抵抗した。その後義正と秀行は佐竹氏に仕え秋田久保田藩士となる。義正は院内に居住し500石を知行し引渡二番座の家格となったが、行貞の代に一時知行を召し上げられ月俸20口を賜って角館に幽閉され、行光の代に再び300石を賜って院内に居住した。行光の二男行重は20石を賜って分家し宝永六年(1709)さらに100石を賜って大小姓番頭となった。秀行は茂木百騎の一家として横手に居住し須田新右衛門と称したが、嫡家は秀行の孫行秀の代に矢田野氏に復姓した。秀行の二男秀尋の子孫はそのまま須田氏を称し、代々兔毛と号した。正徳四年(1714)の「御国中分限帳」横手諸士分限の嶋崎分限に矢田野新右衛門、知行高121石(本田80石、開田41石)と2人扶持矢田野弥六郎が、戸村十太夫組下本町給人に須田兔毛、知行高33石(本田30石、開田3石)がいる。また天保十二年(1841)の「久保田藩分限帳」によれば戸村十太夫組下に矢田野新右衛門知行高九十八石五斗七升一合、矢田野三右衛門知行高三十三石五斗三升六合、矢田野源六知行高二十六石二斗一升六合がいる。家紋は嫡流が丸に立砂、子持ち亀甲中七曜を、分流は細輪に子持ち亀甲中七曜などを使用している。また古文書には矢田野顕義の名も見える。
保土原氏 「二階堂浜尾系図」によれば、二階堂盛藤の二男藤顕が岩瀬郡保土原村(須賀川市大字保土原)に居住し保土原氏を称すという。天正十七年(1589)保土原左近将監行藤入道江南斎は伊達氏に仕え須賀川城攻めの先陣をつとめる。天正十七年十一月二十二日伊達政宗が発給した知行宛行状によれば、本領は保土原三百五十貫文、久来石七百貫文給分五けん五貫文、高林五百貫文、並びに上高林相副とあり、都合千五百五十五貫文以上である。仙台藩では準一家の家格で志田郡新沼村(宮城県志田郡三本木町新沼)で1000石を知行したが、行広の代には329石に減っている。また行広の四男行宏を祖とする分家は召出の家格で30石余を知行した。これとは別に仙台藩士松野氏も保土原氏の支流という。保土原行時が伊達政宗に使え、その子行吉の時政宗の命で松野氏に改姓したという。家紋は丸に竪三つ石を使用する。
浜尾氏 伊豆国懐島の浜の尾に居住したので浜尾氏を称す。宝徳三年(1451)浜尾民部大夫氏泰の時に岩瀬郡に下向し、当時の北沢村に居住する。その後浜尾氏に因んで村名も浜尾村(須賀川市大字浜尾)となる。天正十七年(1589)浜尾右衛門大夫行泰入道善斎とその嫡男駿河守盛泰、善斎の弟豊前守宗泰は伊達氏に仕え須賀川城攻めの先陣をつとめる。天正十七年十一月二十日伊達政宗が浜尾駿河守盛泰に発給した知行宛行状によれば、本領のうち畑田半分は変わらず安堵され、他に本領の替え地として新田、明石田、畑田半分が新たに宛行われている。これらを合計したものが彼の所領高であったと思う。また浜尾豊前守宗泰は安積郡守屋を安堵されている。仙台藩では宗泰の子孫は川嶋氏に改姓し着座の家格で黒川郡大松沢村(宮城県黒川郡大郷町大松沢)で1773石を知行したが、安永二年(1773)行信の代に安永の疑獄によって断絶した。行泰の子孫は中間番士で宮城郡高城村(宮城県宮城郡松島町高城)で167石余を知行する家と黒川郡大松沢村で131石余を知行する家があった。家紋は丸に横木瓜、四つ目結などを使用している。
横田氏 「矢部氏系図」によれば、横田城(須賀川市長沼大字横田)主横田氏は藤原姓で代々左京と号していたという。その後二階堂照行の弟が横田氏の養子となり横田左衛門尉義信と称したとする。また横田氏の所領は横田村・小中村であったとしている。天正十七年(1589)伊達政宗の須賀川城攻めのとき、横田治部少輔は居城横田城に籠城し伊達勢と戦う。須賀川落城後は降参して本領の3分の1を安堵されたと「伊達家治家記録」にあるが、その後の消息は不明である。また古文書に横田左京という名前も見える。
大久保氏 二階堂照行の四男が岩瀬郡大久保村(須賀川市大字大久保)を領し大久保兵部資近と称した。資近の墓は大久保の瑞厳寺にあり、正面に「一等院殿宏夷範公居士 天正十年十月二十日」と、側面に「二階堂安芸守照行四男大久保兵部大夫資近 執権相楽三郎右衛門直舎 嫡流相楽助右衛門政直」とある。また天正十七年(1589)伊達政宗に攻められ大久保氏は滅亡したと「岩瀬郡誌」にある。
木ノ崎氏 その系図によると二階堂行胤が須賀川に居住し、その後裔が岩瀬郡木ノ崎村(須賀川市長沼大字木之崎)に居住したため木ノ崎右近大輔と称すという。天正十七年(1589)伊達政宗の須賀川城攻めのとき、木ノ崎右近大輔は伊達氏に仕える。仙台藩では姓を木崎と称し右近大輔の子重頼が70石余を賜ったが、その子孫は虎間番士で100石を知行した。
樽川氏 浜尾民部大輔の後裔で、河沼郡垂川に居住して称するという。
泉田氏 岩瀬郡泉田村(須賀川市大字泉田)に居住して称する。行村系二階堂氏の支流と考えられる。古くは永享十一年(1439)鎌倉永安寺で稲村公方に殉じて自害した泉田掃部助が知られる。天正十七年(1589)須賀川城に、翌年十八年大里城に籠城した武将に泉田将監とその弟左近がいる。茂木百騎の一家として横手に入った秋田久保田藩士の泉田氏はこの子孫と考えられる。正徳四年(1714)の「御国中分限帳」横手諸士分限の戸村十太夫組下本町給人に泉田庄兵衛、知行高50石(本田45石、開田5石)と2人扶持泉田平七が、天保十二年(1841)の「久保田藩分限帳」によると泉田第太、知行高二十二石がいる。また仙台藩士の泉田氏もその系譜で須賀川二階堂氏の系統であると称するが疑問がある。系譜では人質として会津に赴き、その後芦名家の家臣となり、さらに芦名家と不和となったので伊達氏を頼ったと書かれているが、無理矢理岩瀬郡泉田に繋げた感は否めない。。奥州藤原氏追討後、源頼朝より河内五郡二保を賜った河内四頭の一家と称していること、室町期に栗原郡沢辺や登米郡寺池に居住した二階堂氏もいることからこの系統に属する二階堂氏族であると考えるのが妥当かと思う。また家紋には丸に二つ引きを使用しているので大崎氏との関係も示唆される。泉田は陸奥国府(多賀城)と栗原郡一迫の間に存在した地であるとも、一迫(築館)の旧名であったという説もあり、そこから泉田を称したのではないだろうか。仙台藩士の泉田氏に関してはあくまでも私考である。
 注:岩瀬郡に於いて貫高を江戸期の石高に換算すると一貫文は約三石に相当する。
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