鈴木氏 為氏の下向に従った侍に鈴木一党(白)(藤)とある。また須賀川城に籠城した武将に鈴木帯刀(藤)、旗本衆に鈴木太郎右衛門とその子息彦八郎(藤)、鈴木六郎右衛門(藤)、鈴木太郎左衛門とその子息孫七郎(藤)がいる。また須田系図によれば須田佐渡守秀泰の家臣に鈴木多仲と鈴木兵助が、須田紀伊守秀幹の家臣に鈴木内蔵がいる。
寛永元年(1624)の笹山家の古文書によれば、横手城代須田伯耆盛久の家臣に鈴木平右衛門、御膳番鈴木杢兵衛、奥家老鈴木正右衛門がいるが、一族であろうか。
須田氏 為氏に従った侍に須田美濃介(白)須田(藤)、須田大膳忠(白)須田大膳(藤)、須田三郎兵衛(白)がいる。また須賀川城に籠城した武将に須田美濃守盛秀、須田左近大夫、須田内蔵丞、須田大蔵、須田源蔵、須田織部、須田彦三郎、須田掃部介、須田主膳、須田右近(藤)がいる。須田氏は為氏の時代に惣領家である和田城主須田大学助秀信の嫡男美濃守秀一が和田村・日照田村・田中村・下小山田村を、二男市野関館主佐渡守秀泰が市野関村と小作田村(別称下宿ともいう)を、三男袋田館主三郎兵衛秀房が袋田村を、四男臥竜城主紀伊守秀幹が石川郡竜崎村(石川郡玉川村竜崎)を、五男古舘主(あるいは江持館主)源蔵秀顕が浜尾村(古くは北沢村という)の一部と江持村・堤村を所領としていた。のち堤村は秀顕の二男兵部之介秀次に分領された。これとは別に以前より、館ヶ岡城主須田備前守が館ヶ岡村と安積郡富岡村(郡山市三穂田町富岡)を、蔀久保館主須田大膳亮が雨田村と上小山田村の一部を領していた。さらに時代が下ると、天文年間(1532〜1555)の一時期、白河郡三城目村(西白河郡矢吹町)を小鳥遊館主須田右京亮照秀が、永禄年間(1558〜1570)には白河郡新城村(白河市大信字新城)を鶴ヶ館主須田近江守定綱が、天文二十年(1551)から天正十八年(1590)まで安積郡笹川村(郡山市安積町笹川)を笹川城主須田佐渡守頼隆が、天正十年(1582)より田村郡御代田村(郡山市田村町字御代田)を須田備前守が、安積郡富岡村を須田三郎兵衛尉高真(高実)が所領とした。
館ヶ岡城主須田備前守の事蹟は惣領家和田城主須田氏の事蹟と混同されて古記録・軍記物に記されていることが多いが、須田備前守の子孫は江戸時代にはそのまま須賀川に居住し山伏になったという。宝永六年(1709)に須賀川の行法寺(羽黒派修験宗)に建てられた供養塔に須田□左衛門という名前が筆頭にあるがこの人物が子孫であろうか。また須田佐渡守頼隆は須田備前守の子とする書物もあるが、その真偽は不明である。
天正十六年(1588)頃に須田佐渡守頼隆は伊達政宗に仕え、文禄三年(1594)まで頼隆の子とみられる人物が「須田佐渡守」「笹川佐渡守」という表記で『伊達家治家記録』などに記載がある。また同一人物とみられる須田佐渡守入道家西は伊達政宗に仕え5ヶ村を領していたが、故あって浪人し浅野長政を頼り、その後島津義弘に仕え薩摩国蒲生北村(鹿児島県姶良郡蒲生町北)に居住したという。家西の三男須田伝吉(善五郎)綱□も島津義弘に仕え関ヶ原の戦いに従軍し、帰国後その功により感状並びに100石(蒲生郷土史では20石加増とある)を賜った。その子須田仲左衛門綱清入道心清は島津綱貴公の守役を勤めたとある。寛永十三年(1636)西田新屋敷に居住する鹿児島衆に須田九郎兵衛(堅右衛門)、須田仲右(左?)衛門がいる。薩摩藩士須田氏も宇多源氏佐々木氏族を称している。
須田大膳大夫(大膳亮)の家督は須田右衛門佐治次が継承し、天正十七年(1589)十一月二十四日伊達政宗より本領とみられる雨田村三百五十貫文と上小山田村百七十貫文を安堵され、その子孫も伊達家に仕えたが(七十石余、中間番士)、江戸中期以降記録になく絶家したのか不明である。
田中村の八幡館主須田左近大夫は須賀川城に籠城し桃沢に於いて家臣三瓶太郎左衛門尉と共に討ち死にしたという。
須田美濃守盛秀に関しては四天王についてを参照してください。
盛秀以外の須田一族で秋田久保田藩に仕え横手に居住した者に須田六郎右衛門(仁兵衛)秀行(45石)、須田宮内左衛門秀勝(45石)、須田忠右衛門秀親(45石)、須田七郎右衛門秀氏(30石)、須田主殿助(兵衛左衛門)秀綱(45石)がいる。正徳四年(1714)の「御国中分限帳」によれば、横手諸士分限の戸村十太夫組下本町給人に須田宮内左衛門125石(本田45石、開田80石)、須田市右衛門90石(本田45石、開田45石)、須田藤右衛門55石(本田45石、開田10石)、須田勘兵衛52石(本田45石、開田7石)、須田助市郎25石(開田25石)、須田藤四郎(2人扶持)が、根岸分限に須田半左衛門14石(開田14石)とある。また天保十二年(1841)の「久保田藩分限帳」によれば、戸村十太夫組下に須田七郎右衛門(173石5斗8升9合)、須田宮内左衛門(105石2斗7升4合)、須田市右衛門(56石9斗3升3合)、須田藤四郎(49石4斗1升2合)、須田藤右衛門(22石)とある。また享和三年(1803)に茂木百騎が連判した「心願誓詞」には、須田藤右衛門、須田貢、須田七郎右衛門、須田市右衛門、須田忠右衛門、須田源六、須田伊右衛門、須田三右衛門、須田弾助の名前がある。横手城代が須田氏から戸村氏に変わってからも、茂木百騎は陪臣として扱われ御前出仕は認められなかった。そのため茂木百騎は藩に直臣として認められるように十数回にわたり訴え出ている。「心願誓詞」は訴訟の目的が達成されるように八幡神社(現横手八幡神社)に祈願したものである。茂木百騎が直臣として認められるのは、文政九年(1826)になってからである。
秋田県由利郡西目町沼田の須田家は二階堂旧臣で須田大隅守を先祖とするという(あきた名字物語)。大隅守の受領名を称する須田氏は古記録・軍記物ともに認められないが、白石城主片倉氏の家臣となった二階堂旧臣桐生玄蕃友国の嫡男友安の母は須田大隅広綱女と桐生氏の系図にあり同一人物であろうか。
二階堂旧臣須田善兵衛は須賀川落城後帰農し袋内館(須賀川市大字雨田字袋内)跡に居住した(溝井家古文書)。
簾田氏 永禄・元亀の頃、蛇石館の館主は簾田豊後守という。また小作田の東館は簾田治郎の居館という。田中村の小字簾田から簾田氏を称してと考えられる。須田氏の一族である可能性が高い。
関根氏 木船城主矢部下野守の家臣に関根四郎治(次)がいる(溝井家古文書)。
草香氏 「岩瀬国造系図」によれば、草香氏は白方神社の社家梅田氏の一門で、草香秀与と草香秀家が須賀川城に籠城したとみられる。
添田氏 系図では源姓という。始め山城国篤川庄に居住し篤川勘十郎と称する。正慶二年(1333)南朝の将北畠顕家に従い奥州に下向し伊達郡内に居住したが、暦応二年(1339)八月、和泉国阿倍野に於いて北畠顕家と共に討ち死にしたという。勘十郎の子七郎兵衛(のち勘十郎)は各地を流浪していたが、文安年中(1444〜1449)二階堂為氏の下向に従い家臣となり添田土佐守と称し、為氏の次男左兵衛尉行景が大里城主となったとき、その権職を命ぜられ大里村に移ったという。その後裔添田土佐守は天正十八年(1590)大里城(岩瀬郡天栄村字大里)に籠城し、その後旧領滑里沢に籠居していたが、会津に入部した蒲生氏郷によって五十石を与えられ郷士となったという。また白河侯が本多能登守忠義であった明暦二年(1656)添田家は上大里村の庄屋を仰せつけられ滑里沢より川向に移住したという。
曽根氏 天正年間頃の不断衆に曽根孫四郎(藤)がいる。
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