三島木氏 その系図では、藤原姓を称している。国利の代に北畠親房・宗良親王に従い奥州を目指したが風雨に遭い遠江国に漂着したという。興国二年(1341)奥州から攻め登った北畠顕信に従い、その後陸奥国に移住し、応永五年(1398)師国の代に足利満隆公に召し出されて須賀川長者ヶ岡(須賀川市)から笹川三日市場(郡山市安積町笹川)に移ったという。さらに文安三年(1446)師国の子国道が二階堂山城守行光公に招かれ須賀川に戻ったという。幕紋は五三の桐、家紋は上り藤、三つ柏、五三の桐である。
また須田氏系図によれば、須田源蔵秀顕が分家する際、父須田大学之助秀信から三島木右膳と三島木治部太郎が遣わされている。
宮崎氏 須賀川城に籠城した武将に宮崎内記(藤)がいる。
宗像氏 為氏に従った侍に宗像越中守(藤)がいる。
村越氏 天正年間(1573〜1592)に和田城主須田氏の家臣に平館(須賀川市大字田中)主村越雅楽丞がいた。村越氏はその系譜によれば清和源氏石川氏族(河内国石川郡発祥か)という。その遠祖は源義家で、前九年の役に随従した左兵衛尉親康の後裔と称する。天正十七年(1589)須賀川城に籠城して落城とともに一族離散し、岩瀬郡の田中村・和田村(須賀川市)あるいは石川郡岩法寺村(石川郡玉川村大字岩法寺)で帰農した。和田村で帰農した村越氏は江戸時代庄屋をつとめ、その子孫はのちに浜尾村・和田村の歴史をまとめた『浜田古事考』を著した。
舞木氏 須賀川城に籠城した武将に舞木助右(左)衛門(藤)がいる。田村郡舞木村(福島県郡山市舞木町)発祥であろうか。
森田氏 森田氏系図によれば、桓武平氏三浦氏族を称する。顕高が摂津国森田郷を領し森田城を築いたことから森田氏を称するという。盛道の代に奥州に下向し石川城主石川頼時の家臣となり岩峯寺村館に居住するという。さらに永正八年(1511)顕範の代に岩瀬郡藤沼庄江花村館主立石丹後入道宗光の家臣となり江花村館に移住したという。家紋は巴、三つ柏、丸に四目結である。
守屋氏 四天王についての守屋氏を参照してください。