飯土用氏 | 鎌倉時代にこの地が安達藤九郎盛長の所領であったとき、その草創の功を賞して邑田の十分之一を賜り飯土用荘司に任ぜられたという。須賀川城に籠城した武将に飯土用半次郎(藤)、飯土用七兵衛(藤)がいる。また「岩瀬郡誌」には天正年間(1573〜1592)頃の当主は飯土用六左衛門でその嫡子は右衛門宗清(実は浅賀但馬守守直の三男)とある。その子孫は須賀川落城後帰農し延宝年間(1673〜1681)頃に飯土用氏から飯豊氏に改めたという。飯土用氏は下館(岩瀬郡天栄村飯豊字宮之下)を居城とした。 「水戸黄門」でお馴染みの覚さんこと安積覚兵衛正信は、二階堂旧臣で落城後小笠原家、蒲生家に仕え、寛永年間(1624〜1644)に水戸徳川家で300石で召し抱えられ、その後400石に加増され槍奉行となった人物である。 「水府系纂」によると、正信は飯土用城主飯土用藤内某の三男で、母は安積郡日和田の領主安積某が娘であったという。須賀川落城後幼少にして流浪し母方の姓安積氏を称したという。また飯土用氏の本姓は阿部氏であるとの記述もある。 |
飯村氏 | 為氏の下向に従った侍に飯村豊前守(藤)(白)が、須賀川城に籠城した武将に飯村六郎左衛門(藤)がいる。 |
生田氏 | 長沼彦左衛門宗教の家臣に生田惣兵衛(奥)がいる。 |
石井氏 | 為氏に従った侍に石井大学(白)(藤)が、須賀川城に籠城した武将に石井大学(藤)がいる。系図では清和源氏を称し大内惟義の後裔という。始め小野氏を称していたが、頼高の代に相模国に居住し二階堂行泰に仕え石射氏と称し、さらに実純の代に二階堂為氏に従って須賀川に下向し石井氏に改めたという。その後裔大学俊春が須賀川城に籠城した。家紋は丸に違い鷹羽・垣枝菊である。秋田久保田藩士に石井氏が多数確認できるが関係があるかは分からない。 また天文五年(1536)に二階堂続義から石井上総に出された感状が残っていて、それによれば喜連川五月女坂合戦に於ける軍功により、新城白子(白河市大信大字上新城・中新城・下新城と岩瀬郡天栄村大字白子)の内に百貫文を加増されている。「岩瀬郡誌」によれば、この石井上総は白河家臣で借宿村の新知山館主石井丹波の一族であるが、故あって二階堂氏に仕えたとある。 |
石貝氏 | 大里城に籠城した侍に石貝掃部(岩)がいる。しかし添田氏過去帳では石見掃部となっている。字が似ているので、どちらかの書き写し間違いと思われるが、名字としては石見の可能性が高いか。 |
伊須賀氏 | 大里城に籠城した侍に伊須賀紋兵衛(岩)がいる。 |
泉田氏 | 二階堂氏の一門・一族の泉田氏を参照してください。 |
磯部氏 | 須賀川城に籠城した武将に磯部孫右衛門(藤)、磯部与十郎(藤)がいる。松本村に磯部館(岩瀬郡天栄村上松本字新屋敷)があったので居城であろうか。 |
伊土井氏 | 為氏の下向に従った侍に伊土井藤内(藤)(白)、須賀川城に籠城した武将に伊土井藤内がいる。「藤葉栄衰記」では伊が脱字して、土井となっているが伊土井の間違いであろう。私は伊土井氏は糸井氏に通じるのではないかと考えている。 |
一色氏 | 為氏の下向に従った侍に一色図書亮(藤)一色図書之介(白)がいる。 |
稲川氏 | 大里城に籠城した侍に稲川丹後(岩)がいる。この子孫を称する家が、今でも岩瀬郡天栄村字大里に居住している。添田氏過去帳では稲川豊前となっている。 |
猪越氏 | 為氏の下向に従った侍に猪越(藤)猪越市郎兵衛(白)がいる。 |
今泉氏 | 為氏の下向に従った侍に今泉伊豆守(藤)、須賀川城に籠城した武将に今泉伊豆守(藤)がいる。岩瀬郡今泉村(須賀川市大字今泉)を発祥とするか。 寛永元年(1624)の笹山家の古文書によれば、横手城代須田伯耆盛久の家臣に奥家老今泉九右衛門がいるが、一族であろうか。 また天保十二年(1841)の「久保田藩分限帳」によれば、横手の小鷹狩(向)左近組下に今泉四郎左衛門(九石鍛冶)とあるが、その子孫であろうか。 |
岩井氏 | 系図によれば、菅原氏の末流で、山城国葛野郡岩井城に居住して岩井氏を称するという。元弘元年(1331)邦広の代に岩瀬郡稲村(須賀川市大字稲)に居住し、文安元年(1444)高明の代に二階堂山城守行光に仕え家中となる。その子孫友寧が須賀川城に籠城し討ち死にした。 |
岩崎氏 | 為氏の下向に従った侍に岩崎大炊助(藤)岩崎大炊之介(白)、滑川合戦で討ち死にした侍に岩崎出雲(藤)、須賀川城に籠城した武将に岩崎藤十郎(藤)がいる。岩城氏庶流で岩崎(磐前)郡の国人領主岩崎氏の一族であろうか。 |
岩田氏 | 天正年間(1573〜1592)の頃、二階堂家中に岩田喜内(藤)という侍がいた。 |