横沢氏 須賀川城に籠城した武将に横沢内膳(藤)がいる。
横田氏 二階堂氏の一門・一族の横田氏を参照してください。
吉田氏 須賀川城に籠城した武将に吉田彦十郎(藤)がいる。岩瀬郡下宿村の吉田氏系図によれば、清和源氏を称していて、源為義の弟義時の次男義資を祖とし、その後裔吉田修理亮勝重の時に二階堂大和守行光に仕え、勝重は嘉吉元年(1441)に亡くなったとある。
また岩瀬郡館ヶ岡村旧庄屋吉田氏の系図によれば、これも清和源氏を称していて、和泉国霞ヶ城主源泰氏の次男義綱が応永二十三年(1416)一門と不和となり和泉国山沢館を退去して、石川郡主石川美濃守有実を頼り奥州に下向し、その後芦名氏に仕え、さらに二階堂氏に仕えたとある。
吉成氏 為氏に従った侍に吉成(藤)、吉成主膳(白)、須賀川城に籠城した武将に吉成監物(藤)と吉成玄蕃(藤)がいる。須賀川落城から三十八年後の寛永四年(1627)に書かれた雨田村(須賀川市大字雨田)庄屋溝井氏の古文書には、雨田村中山に吉成次左衛門、雨田村松ヶ作に吉成土佐が居住とある。吉成氏の系譜によれば、吉成氏は藤姓を称している。中臣鎌足から三十九代の後裔吉成遠江守吉道は代々遠江国袖ヶ浦吉成郷の吉成城にあったが、新田義貞が鎌倉を攻めたときに北条方として討ち死にし、その子息吉成民部少輔道記は吉成城を落去して奥州に下り、会津の芦名下野守盛重に仕え、岩瀬郡川東郷雨田村に三百石を与えられ中山館を居城としたという。家紋は丸に三つ引きを使用している。秋田久保田藩士に吉成氏が多数いるが、二階堂旧臣かどうかは不明である。
我妻氏 大里城に籠城した侍に我妻民部(岩)がいる。添田家過去帳では我妻丹後とある。横手市立図書館蔵の元禄三年(1690)の古文書には須賀川衆の一人として我妻五左衛門の名前が、また正徳四年(1714)の「御国中分限帳」によれば、横手諸士分限の戸村十太夫組下本町給人に我妻五左衛門(二人扶持)とある。天保十二年(1841)の「久保田藩分限帳」には、横手の戸村十太夫組下に我妻喜斎(給銀三十目二人扶持掃除坊主)とあるが、その子孫か。
和田氏 大里城に籠城した侍に和田将監(岩)と和田主殿(岩)がいる。添田家過去帳では和田若狭、和田主殿とある。この子孫を称する家が、今でも岩瀬郡天栄村字大里に居住している。
渡辺氏 渡辺氏系図によれば、嵯峨源氏を称していて、渡辺綱から二十三代の後裔重軌は将軍足利義満の家臣であったが、足利満直が稲村御所に下向した際に従って来て大桑原館の鼻に居住し、文安三年(1446)二階堂為氏に仕えた。その子孫右近理広は須賀川城が落城したのち大桑原村(須賀川市大字大桑原)に隠棲し、その後会津に入部した蒲生家より村肝煎を命ぜられたという。大桑原の渡辺家には為氏が渡辺舎人に発給した相馬合戦の感状が伝わる。また山王山祠官の渡辺家にも為氏が渡辺丹波に発給した行方原出馬の感状が伝わっている。
また伊達家に仕えた渡辺作兵衛は藤原姓を称していて、浜尾豊前守宗泰の与力であったという。その子孫は次間番士で百石余を知行した。
割城氏 和田城主須田美濃守の家臣(須田七騎の一家)である。「藤葉栄衰記」には割鎖と書かれているが割城の誤りであろう。
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