大賀氏 須賀川城に籠城した武将に大賀大学(藤)(奥)がいる。その系図によれば、大賀氏は藤原姓を称していて、文安元年(1444)三月二十日大学秀政が二階堂為氏の岩瀬郡下向に従って来て泉田村(須賀川市字泉田)に居館したという。その後裔である大学秀教が須賀川城に籠城して討ち死にし、泉田館主泉田将監の家臣となっていた弟勘解由政教が、会津に蒲生氏、上杉氏が入部すると泉田村の郷士になったという。
大河原氏 大里城に籠城した侍に大河原伊予(藤)がいる。
大久保氏 二階堂氏の一門・一族の大久保氏を参照してください。
大越氏 為氏の下向に従った侍に大越又右衛門(白)がいる。田村郡大越村(福島県田村郡大越町)の大越城主に大越氏がいたので、この一族であろうか。
太田氏 須賀川城に籠城した武将に太田与三左衛門、太田監物(藤)がいる。「相楽文書」「白河風土記」によれば、須賀川落城後蒲生氏郷によって須賀川道場町の検断・庄屋を仰せ付けられた太田与惣左衛門の父は、守屋館主太田内記の弟太田七郎右衛門であるという。また「吉田文書」によれば、文政十二年(1829)三月、太田勘十郎が高年寄大庄屋席高十五石苗字帯刀を申し付けられたとあり、太田与惣左衛門の子孫であろうか。
大槻氏 為氏の下向に従った侍に大槻隼人(藤)、須賀川城に籠城した武将に大槻与一郎(藤)がいる。安積郡大槻村(福島県郡山市大槻町)の大槻城主に伊東氏族の大槻氏がいたので、この一族であろう。
大寺氏 須賀川城に籠城した武将に大寺宮内大輔(藤)と大寺雅楽丞(藤)がいる。石川郡大寺郷(福島県石川郡玉川村)の大寺城主に石川氏族の大寺氏がいたので、この一族であろう。
大波氏 須賀川城に籠城した武将に大波越後守(藤)、その嫡男大波石見守(藤)(奥)とその子息新四郎(藤)がいる。「奥羽永慶軍記」では大脇石見守となっているが大波石見守の間違いであろう。大波越後守は大乗院が伊達家から二階堂家に輿入れした際、付侍として二階堂家に遣わされた者であるという。伊達郡小手郷(保)に大波村(福島市大波)があり、伊達家臣に大波城主大波伊賀守がいるので、この一族であろうか。大波氏は当初紀伊国栗原に居住し栗原氏を称していたが、のち陸奥国に移り安積氏や信夫氏を、さらに大波城に移ってから大波氏を称したという。小手保は平安末期に伊達郡の一郷が割かれて奈良の興福寺領として立券されている。
大沼氏 大里城に籠城した侍に大沼和泉(岩)がいる。
大橋氏 須賀川城に籠城した武将に大橋掃部(藤)がいる。
大原氏 為氏の下向に従った侍に大原内匠(藤)、須賀川城に籠城した武将に大原内匠介(藤)がいる。また須賀川落城後降参し、天正十七年(1589)十一月二十四日、伊達政宗から本領並びに志奈沢を安堵された大原但馬守と本領並びに不二宇村を安堵された大原美濃守がいる。
岡内氏 安藤氏系図によれば、天文年間(1532〜1555)に和田城主須田氏の家老を務めた安藤師雅の子に岡ノ内蔵人太夫藤原式能とある。その名前は岩瀬郡鉾衝村(須賀川市長沼字鉾衝)の岡ノ内館に由来すると思われるが詳細は不明。
小川氏 為氏の下向に従った侍に小川監物(白)(藤)、須賀川城に籠城した武将に小川内蔵丞とその子息弥三郎(藤)がいる。小川氏は岩瀬郡小川村(岩瀬郡天栄村小川)を所領とし、小川館を居城としていたと考えられる。
忍氏 為氏の下向に従った侍に忍藤兵衛尉(白)忍藤兵衛(藤)、須賀川城に籠城した武将に忍藤兵衛とその弟忍羽右衛門(藤)がいる。
越久氏 越久館(須賀川市字越久)は越久豊前守義久が館主であった。越久は在名で本姓は矢部氏である。天正十七年(1589)十一月二十四日、伊達政宗から本領である越久村三百五十貫文給分二貫文を安堵されている。
小沼氏 大里城に籠城した侍に小沼隼人(岩)と小沼主計(岩)がいる。この子孫を称する家が、今でも岩瀬郡天栄村字大里に居住している。
小野寺氏 為氏の下向に従った侍に小野寺下記(白)、須賀川城に籠城した武将に小野寺下記(藤)がいる。
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