寺院名 宗 派 住   所
妙林寺 天台宗 須賀川市字加治町3−5 羽黒山と号し、創立当初は比叡山延暦寺の直末であったが、宗源の代から上野国世良田長楽寺の末寺となった。天長元年(824)弘法大師が和田村に一寺を建立し、さらに仁寿二年(852)慈覚大師が開山し僧慶豪という者が住持となったという。同寺は応永年間(1394〜1428)に衰亡した時があったが、二階堂家の家臣青木下記の尽力で復興したという。文安年間(1444〜1449)二階堂為氏が岩瀬郡に下向したとき鎌倉法界寺の明栄という僧を伴っていたが、のち須賀川城二の丸に寺を移し住僧としたという。天正十七年(1589)須賀川城落城時に兵火により焼失したが、天正年間(1573〜1592)に宗源という僧が蒲生氏郷の家臣白河城代町野長門守に願い出て現在地に再興したという。
千用寺 天台宗 須賀川市字諏訪町15 金剛山と号し、仁寿元年(851)奥羽に蜂起した蝦夷を退治するため勅願により慈覚大師が牛袋村に開基したという。なお千用寺は岩瀬郡惣社諏訪大明神の別当職で二階堂家の武運長久ならびに家運繁栄を祈ったという。天正十七年(1589)須賀川城落城時に兵火により焼失したが、五十四世秀慶と五十五世秀存両住職が復興に尽力し現在地に再興したという。。
長禄寺 曹洞宗 須賀川市字北町3 広福山と号し、二階堂為氏が二階堂治部大輔一族を弔うため一寺を建立し、鎌倉より月窓和尚を招き開山とし、寺領千石を附したという。その後、長禄寺は奥州ばかりか越後、下野などの国々に末寺百三十余寺を有する大本寺となり全国から参禅するものがあとを絶たなかったという。開山三年後、後花園天皇が勅使を同寺に使わし月窓和尚に仏日慧照禅師の勅号と、最高の僧衣である紫衣を贈り、さらに同寺を勅願寺としたという。天正十七年(1589)の須賀川城落城時に兵火により焼失したが、現在の長松院の地に再興され、さらに文禄年間(1592〜1596))に現在地に移ったという。境外の墓地には大乗院と須賀川城落城時に戦死した多くの将士の墓がある。
普応寺 臨済宗円覚寺派 須賀川市字諏訪町3 獅巌山と号し、鎌倉の円覚寺の直末である。白河城主結城親朝が父宗広の追福のため稲村に一寺を建立し、叔父の印元和尚をもって開山としたという。その後稲村公方の帰依を受け、さらに嘉吉二年(1442)二階堂大炊頭行盛が岩瀬郡を領し須賀川に築城したとき中興開山(長禄寺の現在地にあったという)となったという。
長松院 曹洞宗 須賀川市字諏訪町88 万年山と号し、長禄寺の末寺。開基は二階堂山城守行詮の室(三浦平八郎為豊の娘)で、その法名である長松院殿鶴窓昌寿大姉から寺号をとっている。行詮の室は文明七年(1475)二月十三日に没し、麒山禅師を請じて引導され、その縁で牛袋村(須賀川市大字西川字堀底)に一寺を建立し、同禅師を開山とし寺領三十石を附されたという。須賀川城落城まで牛袋村にあったが、落城後蒲生氏郷の妹婿田丸中務少輔直昌が牛袋村から守山へ移し、さらに慶長十八年(1613)相楽三河守の三男孫右衛門貞保が須賀川の現在地(長禄寺の旧地という)へ移したという。
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長松院( 出典:芭蕉庵ドットコム