戦国大名二階堂氏の系譜について「鎌倉管領所役考応仁武鑑」の二階堂系図と須賀川市長禄寺所蔵の「二階堂藤原系図」では行光系としているが、「二階堂浜尾系図」では行村系としている。

 江戸期に著された「奥羽永慶軍記」では二階堂盛義は二階堂出羽守貞藤入道道蘊より八代の末孫としていて行村系と見なしている。

 また、須賀川市普応寺の寺伝によると、二階堂式部大輔為治の嫡男が二階堂遠江守為氏とあり、田村郡国分家の古文書によると、応永二十三年(1416)に二階堂式部大輔は遠州・奥州合わせて十二万石知行しており、文安三年(1446)三月二十四日に二階堂治部大輔が切腹して二階堂遠江守為氏が文安三年より岩瀬郡の大将になったという記載がある。

 このように二階堂為氏以前の系統については諸説があって、どれが信用のおけるものかは、まったく判らないというのが事実である。

 二階堂氏の岩瀬郡領有に関しては、文治五年(1189)の奥州藤原氏征伐の直後かそれに近い頃に実現したと考えられている。

 「吾妻鑑」によると、建保元年(1213)に泉親衡らの謀反計画が発覚し、首謀者の一人和田平太胤長は二階堂行村に預けられ、岩瀬郡に流されたのち、岩瀬郡稲村で誅されたとあり、当時すでに二階堂行村が岩瀬郡に所領をもっていたことがわかる。


岩瀬郡河東郷内大栗・狢森両村に関する陸奥国宣(相楽結城家文書)

 また、南北朝期の延元四年・興国元年(1340)に南朝の将北畠親房によって、北朝方であった二階堂備中守時藤入道道存の所領岩瀬郡西方の二十一ヶ村は没収され、南朝方であった白河城主結城大蔵大輔親朝の領地とされたことを示す陸奥国宣・北畠親房御教書などの古文書が残っているので、鎌倉時代より南北朝期まで岩瀬郡西方の領地は行村系二階堂氏が代々相伝してきたと考えて良いのではないかと思う。

 観応二年(1351)には北朝の将吉良右京大夫貞家が稲村城に入っているので、この時すでに道存は領地を回復していたと考えられるが、「二階堂浜尾系図」によれば道存は観応年間(1350〜1352)に討ち死にしたとある。


二階堂安芸守成藤が、一族の道信・道照(入道号であろう)が未だ所領(南朝によって没収されたか)を引き渡さないことを嘆き、白河氏(親朝か)が道理の通りに沙汰してくれたことに対して感謝している書状(結城家文書)
年号はないが、七月二十一日とあり、延元四年・興国元年(1340)北朝方の二階堂時藤(入道号道存)の所領岩瀬郡西方二十一ヶ村が藤原英房や北畠顕信の料所と処分され、その管理が白河親朝に任せられてから、康永二年(1343)八月白河親朝が北朝方に転じるまでの間に出されたものか。二階堂成藤は建武新政府では雑訴決断所の所衆、その後室町幕府鎌倉府の政所執事に補任されている。
この「藤」を通字とする一族は、稲村二階堂氏であろうか。

 応永十一年(1404)七月、安積・田村・岩瀬郡を中心とする豪族二十名が一揆契約を結び、笹川・稲村両公方に忠誠を誓った傘連判状に須賀川刑部少輔行嗣と稲村藤原満藤の名前がある。

 このことは、稲村城を居城とする二階堂氏と須賀川城(琵琶首館、岩瀬山城、愛宕山城と呼ばれた城で、戦国大名二階堂氏が居城とした須賀川城とは城域が異なる)を居城とする二階堂氏が同じ時代に岩瀬郡内で並立していたこと示している。

 先に述べたように、稲村城主二階堂氏は行村系である可能性が高い。私は当時の須賀川城主二階堂氏は行光系ではないかと考えている。

 二階堂信濃守行朝入道行珍は南朝方として奥羽鎮定に功があり陸奥国府の評定衆に任ぜられているが、私はその行朝が当時須賀川に所領をもっていて、連判状に出てくる行嗣はその子孫ではないかと考えている。これを裏付けるように常陸国有賀村(茨城県東茨城郡内原町)に居住する黒沢家の系図では、行朝までは代々鎌倉幕府問注所の執事をつとめ、行朝の子行親が建武二年(1335)一月十六日京都で討死し、その弟行通が問注所の執事職を相続したので、行親の子某の代より奥州須賀川に下向して居住し、それから五代あとの信濃守道薫に至って故あって須賀川を去り常陸国久慈郡黒沢村に居住したとしている。


二階堂三河次郎の所領を芦名氏と相談して白河右兵衛入道(満朝)が知行するようにとの内容の笹川公方足利満直の書状(国学院大学白河結城文書)
年号はないが、十月二十六日とあり、永享元年(1429)に出されたと考えられている。二階堂三河次郎とは二階堂三河守の次男ということであるが、父三河守とは二階堂三河守定種のことであろうか、また二階堂三河次郎の所領は闕所地として処分されたものであろうか。
嘉吉三年(1443)二月二十二日、小峰氏宛に出された前三河守満種と署名がある一揆契状も知られるが、この「種」を通字とし、「三河守」の受領名を使う一族は稲村二階堂氏の庶流保土原二階堂氏であろうか。

 永享十年(1438)に永享の乱が起こるが、この乱では鎌倉公方足利持氏と稲村公方足利満貞とともに二階堂伊勢入道と二階堂民部少輔が、翌年(1439)鎌倉永安寺に於いて自害している。

 自害者の中に岩瀬郡泉田領主とみられる泉田掃部助と同じく岩渕領主とみられる岩渕修理亮の名前があることからも、両者とも稲村公方足利満貞に仕えた岩瀬郡西方に所領をもつ行村系二階堂氏と考えてほぼ間違いがないであろう。

 また、嘉吉元年(1441)結城城が落城し、二階堂左衛門尉と稲村下野入道が誅されているが、私はこの両者も岩瀬郡西方に所領をもつ行村系二階堂氏ではないかと考えている。

 稲村城主二階堂氏の一族は、永享の乱、結城合戦により壊滅的打撃を受けたのではないかと考えられる。

 ただ、その後の稲村城主二階堂氏と須賀川城主二階堂氏の関係がどのように展開したのかは史料が乏しくよく分からない。

 ただ、文安五年(1448)二階堂為氏が須賀川城主二階堂治部大輔を滅ぼし須賀川城に入城する以前には稲村城は廃されていたようである。

 いずれにしても、須賀川二階堂氏が岩瀬郡内の諸豪族を討ち郡内を統一して戦国大名として成立する素地を築いたのは二階堂為氏である。 

 この為氏という名乗りであるが、明らかに文安四年(1447)鎌倉府を再興した足利成氏との深い関係が示唆され、二階堂為氏の須賀川城入城に関して、鎌倉府再興という政治情勢の変化が大きく影響したと考えられる。
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