須賀川城籠城戦
 天正十七年(1589)六月五日に摺上原の合戦で芦名義広を破った伊達政宗は会津四郡を手に入れ黒川城を新たな居城とした。

 伊達政宗は同年七月から奥会津の伊北郷を支配する山内刑部大輔氏勝と伊南郷を支配する河原田治部少輔盛次を討伐するため軍勢を派遣している。

 その一方で、仙道制覇を目指す伊達政宗は仙道の諸大名に使者を遣わし和順を進めていった。

 白河郡の白河上野介義親入道不説斎と石川郡の石川大和守昭光は内々に誓約を交わしてきたが、ただ岩瀬郡の二階堂氏のみは、一向に帰服する様子もなく岩城、佐竹からの援軍も到着し戦う気配を示していた。

 伊達政宗にとって二階堂氏の後室大乗院は叔母にあたるということもあり、度々使者を遣わし帰服を促していたが、一方で岩瀬郡の諸将に対して調略を進めていた。

 十月に入り、二階堂氏の重臣保土原左近将監行藤入道江南斎、浜尾右衛門大夫行泰入道善斎、その嫡男駿河守盛泰、善斎の弟豊前守宗泰、木ノ崎右近大輔などから内応の確約を取り付けたのをうけ、十月二十日に黒川城を出馬、翌二十一日には片平大和守親綱の居城片平城に着陣した。

 片平城に入った伊達政宗は、二階堂後室に最期通牒ともいえる催促の書を遣わすとともに、矢部下野守義政、越久豊前守義久などからも内応の確約を取り付けるなど着々と岩瀬郡侵攻に関して準備を成していたが、田村孫七郎宗顕が三春城から田村勢を率いて参陣するのを待ち、二十五日片平城を出馬した。

 一方、伊達勢を待ち受ける須賀川城内はというと、岩瀬郡西方の諸将が伊達方に寝返ったという風聞が流れるなか、当初和睦か抗戦かで揺れていた。

 しかし、二階堂家を思い、伊達政宗の計略に憤った家臣、領民は十月十日の夜を期して手に手に松明を灯し町の東の丘に集まり、決死の覚悟で須賀川城を守ることを決議し大乗院に進言した。

 後室大乗院は城中に家臣を集め自らの心中を語った。

 「夫盛義が世にある時は、甥伊達政宗は我が宿敵である田村に味方し二階堂に敵対しました。一方、佐竹義重は私の妹婿であり事あるごとに援軍を差し向けてくれました。 この火急の時にあたり、その重恩を忘れ伊達政宗に服属することはできません。たとえ一日たりともこの城を持ち堪えることが、その恩に報いる唯一の道と考えます。 もとより城を枕に討ち死にの覚悟です。たとえ伊達政宗に仕えようとする者があっても恨むようなことはありません。 しかし、義を重んじ、節に生きようとする者は、我とともに戦い、城と運命をともにしょうぞ」との切々とした言葉に家臣達からは嗚咽の声が聞こえてきた。

 執政須田美濃守盛秀は、二階堂家の行く末を憂えて内々和睦の道も申し上げていたが、
つと進み出て「奥方様、それほどまでの御決意とあらば、我らいかで伊達政宗につきましょうや。
 歴代にわたり恩顧を賜った私どもです。誓って須賀川城を守ります。」と籠城することに決した。

 この時籠城に賛同した家臣達は塩田右近大夫政繁、遠藤内蔵頭、遠藤右近大夫、遠藤弥右衛門、佐久間主殿介、佐久間弥右衛門、内山右馬丞、大原内匠介、飯村六郎左衛門、青木次郎兵衛、須田内蔵丞、大槻与一郎、桐生玄蕃友国、桐生若狭守、黒月与右衛門、青木源四郎、服部伊豆守秀正、吉成監物、吉成玄蕃、日照田大学、田中兵庫、須田左近大夫、遠藤万力正勝、前田川信濃守、須田美濃守盛秀、子息須田源一郎秀広、矢部主膳、遠藤左馬介、円谷与三左衛門、円谷右馬丞、鹿島彦八郎、須田大蔵、江持近江守、須田源蔵、高久田四郎義兼、矢部紀伊守、須田織部、須田彦三郎、飯土用半次郎、鏡沼大膳、浜尾藤一郎、矢部源五郎、小原田内膳、滑川藤十郎、山寺淡路守、鈴木帯刀、子息鈴木八郎、小川和泉守、子息小川彦太郎、
 二階堂家の旗本衆では、浜尾三河守、子息浜尾内蔵助、その弟浜尾孫十郎、浜尾筑後守、子息浜尾内匠、浜尾志摩守、子息浜尾内記允、その弟浜尾弥兵衛、その弟浜尾内匠助、遠藤雅楽頭勝重、子息遠藤彦一郎、遠藤壱岐守、矢部伊豫守、矢部掃部助、子息矢部織部、朝日伊勢守、子息朝日万七郎、大波越後守、大波石見守、子息大波新四郎、薄井源左衛門、薄井弥十郎、内田肥前守、高林右衛門、荒木田清右衛門、大寺宮内大輔、大寺雅楽丞、飯土用七兵衛、泉田将監、その弟泉田左近、横沢内膳、熊沢四郎右衛門、熊沢介左衛門、長沼彦左衛門宗教、忍藤兵衛、その弟忍羽右衛門、岩崎藤十郎、伊土井藤内、白葉因幡守、大賀大学秀教、箭内助右衛門、鈴木太郎右衛門、子息鈴木彦八郎、鈴木六郎右衛門、鈴木太郎左衛門、子息鈴木孫七郎、小川内蔵丞、子息小川弥三郎、今泉伊豆守、石井大学俊春、須田主膳、須田右近、徳善院、光明院(浜尾讃岐守栄俊)、小野寺下記、矢部右馬丞、矢部蔵人丞、須田掃部介、西牧甚四郎、玉名与次右衛門、宮崎内記、片寄新蔵人、早原彦右衛門、根本左馬丞、箭内雅楽介、佐藤主水、太田与三左衛門、太田監物、塚原次郎右衛門、中村助七郎秀治、味戸助兵衛、佐久間十右衛門、藍原太郎左衛門、橋本藤右衛門、志賀杢助、石井彦右衛門、舞木助右衛門、吉田彦十郎、磯部孫右衛門、磯部与十郎、船田次郎左衛門、車田平右衛門、三瓶太郎左衛門、小林弥八郎久忠、阿久津与八郎、下枝掃部、木田新次郎、木田又右衛門、大橋掃部、五市隼人、佐藤助七郎、佐藤雅楽丞、梅宮源七郎、沙茂孫十郎、花川藤左衛門、影山与惣六郎、影山長三郎、影山又一郎、高橋菊阿弥、高橋右衛門、坂地五郎右衛門光方、柳沼与六左衛門正賢、常松縫殿介義盛などの武将達である。
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