そして一同は、この日城中に来ていた千用寺の秀芸法印と妙林寺の明良法印が、御誓文を熊野牛王に書いて、それを焼いて灰にしたものを酒に入れた神酒を酌み交わし忠誠を誓った。
片平城を出馬した伊達政宗は一路南下、大槻を過ぎて須賀川の西方約八キロにある横田近くを進んで、その日は二階堂家の一門衆である横田治部少輔の守る横田城と矢田野藤三郎義正の守る矢田野城を偵察させたのみで何事もなく、横田城を間近に見下ろす松山に上り諸将を集め軍義を催した。
「二階堂のどの城から先に攻めるべきか。」と伊達政宗が問うたところ、保土原江南斎が進み出て「はじめにこのような支城に攻め掛かるより須賀川本城を一挙に攻め落とせば、横田・矢田野などの支城の者共も降参しましょう。」と誰はばかることなく言上したところ、伊達政宗は「もっともな事。」と頷かれ、「その須賀川城を攻めるにはどこから攻め入ればよいか。
「籠もれる兵はどのくらいおるか」と重ねて尋ねられた。
保土原江南斎が答えて「岩城・佐竹からの援軍を合わせても七百騎に過ぎぬでしょう」と言上した。
また、田村宮内大夫顕頼入道月斎が答えて「押し寄せるのに都合がよいのは鎌倉街道に開く南ノ原口で、ここから掛かるのが順序であるが、上り坂で見通しが悪く敵がどれ程いるかも見えませぬ 西方には牛袋川があるがそのほかは一面に地続きで高く、八幡崎の出城を一目で見渡せるので、ここから攻めるのが一番よいのではありませぬか」と申すので伊達政宗はこの策を取ることにした。
その夜は、横田城より北に約四キロのところにある浜尾駿河守盛泰の居城今泉城に引き返し宿陣した。
十月二十六日(新暦の十二月三日)未明、今泉城を出馬した伊達勢は一路南下し、牛袋川(釈迦堂川)の対岸に布陣した。伊達政宗の本陣は遠藤雅楽頭勝重の居城山寺館のある小高い丘(後に陣馬山と呼ばれた)に定められた。
伊達勢の布陣は次の通りである。
<大黒石口>
先陣 新国上総介貞道
二陣 白石右衛門佐宗実
三陣 四保兵部大輔宗義
<雨呼口>
先陣 大内備前守定綱、片平大和守親綱兄弟
二陣 伊達藤五郎成実
三陣 片倉小十郎景綱(同陣していなかったとの説あり)
<南ノ原口>
先陣 保土原左近将監行藤入道江南斎、浜尾右衛門大夫行泰入道善斎、猪苗代弾正盛国、
平田左京亮氏範入道不休斎、平田周防守実範、松本刑部、佐瀬但馬守、柴野弾正丞、
遊佐丹後守などの芦名・畠山・二階堂の降臣
二陣 田村孫七郎宗顕、田村宮内大夫顕頼入道月斎、田村右馬頭顕基入道梅雪斎、
田村右衛門大夫清康、橋本刑部少輔顕徳、蒲倉兵部少輔などの田村勢
後陣 屋代解由兵衛景頼、後藤孫兵衛尉信康、大條尾張守宗直、瀬上中務少輔信康(景康)、
飯坂右近大夫宗康、田手助三郎宗実、大嶺式部少輔信祐
これに対して城方の守りは次の通りである。
<本丸>
守将 遠藤雅楽頭勝重
浜尾三河守、舎弟筑後守、遠藤志摩守、矢部伊豫守、朝日伊勢守、
大波越後守以下の二階堂旗本衆
<大手南ノ原口および出城方八丁館>
守将 須田美濃守盛秀
矢田野伊豆守隆行、長沼源五左衛門秀光、佐竹からの援軍川井甲斐守久忠(忠脩)、
武茂左馬介重綱、茅根土佐守通正、松野上総介資通、月居大膳亮忠時
<大黒石口および出城八幡崎館>
守将 塩田右近大夫政繁
政繁の嫡男塩田光繁
須田源蔵、矢田野右近秀行、遠藤壱岐守、大波新四郎、泉田将監、舎弟泉田左近、
鈴木太郎右衛門、鈴木六郎左衛門、矢部主膳、円谷与三左衛門、円谷右馬丞、
遠藤左馬介、鹿島彦八郎、須田大蔵、前田川信濃守、江持近江守、遠藤右近大夫、
遠藤内蔵頭、遠藤弥右衛門、佐久間主殿介、佐久間弥右衛門、飯村六郎左衛門、
内山右馬丞、青木次郎兵衛、大原内匠介、黒月与右衛門、大槻与一郎、桐生玄蕃友国、
桐生若狭守、須田内蔵丞、須田左近大夫、日照田大学、大寺雅楽丞、
服部伊豆守秀正、吉成玄蕃、吉成監物、江藤万力正勝
<雨呼口>
守将 守屋筑後守俊重
長沼彦左衛門宗教、嫡男長沼又四郎宗綱、鈴木帯刀、子息鈴木八郎、山寺淡路守、
小川和泉守、子息小川彦太郎、牛袋将監、滑川藤十郎、守屋采女正重清、
坂地五郎右衛門光方、岩城からの援軍植田但馬守隆堅、竹貫中務大輔尚忠、
北郷(小川)刑部少輔隆勝