布陣を終えた伊達政宗は自ら近習十数騎を引きつれ、雨呼口の物見に出ていたが、この口を守備する岩城勢がこれに鉄砲を撃ちかけ、これを境に雨呼口、大黒石口、南ノ原口の三方からの伊達勢の攻撃が開始された。
戦いは辰刻(午前八時)より始まり一進一退の攻防が続いた。雨呼口では先陣の大内定綱、片平親綱兄弟の備えを崩したが、二陣の伊達成実がこれに代わって激しく攻め立て、外曲輪の木戸から北町まで進入を許し、この付近で激戦が続いていた。大黒石口・八幡崎館でも激戦が続いていて新国貞通の手勢が徒歩になり大黒石の池より岩の間や田の畦を伝い、会下町小路の南の辺りに乱入し、付近の民家に火を掛けようとしたが撃退され、未だ城門は破られていなかった。
特に八幡崎館で戦っていた若武者大波新四郎と遠藤壱岐守は獅子奮迅の働きで、これを見た伊達政宗は「希世ノ逸物」と二人の武勇を賞め家臣に命じて生け捕らせたという。
伊達政宗の面前に引き立てられた二人は伊達家への仕官を勧められたが、大波新四郎は伊達政宗の言に従わず悠々と立ち去り、遠藤壱岐守だけが伊達政宗の意に感じ臣従したという。
南ノ原口では守将須田盛秀が覚悟の戦いということで他の兵を混ぜず、四目結の大旗を差し上げ安藤、服部、小板橋、笹山、山寺、長瀬、割城などの股肱の家臣五十騎兵二百ほどを前後左右に従え、「互いに今日が最後の戦いぞ、首を取り名を上げたとて恩賞などはないぞ、ただただ力のあらん限り死に物狂いで戦えよ」と下知し、一進一退の激戦を繰り広げていてここも未だ城門は破られていなかった。
数時間に渡る戦闘により両軍とも疲れ日も暮れかかったので、もはや今日の戦いはこれまでと思われたとき、かねてから伊達政宗に内応の約を成していた守屋俊重が、家臣の織部と金平という兄弟に命じて本丸の西にある二階堂家の菩提所長禄寺に火を放った。
この火は折からの西風により本丸の屋形に延焼し余煙は城を覆った。もはやこの期に及んでは誰の目にも落城は明らかとなった。
南ノ原口で戦っていた須田盛秀も本丸に火が掛かったのを見て生き残った家臣を集め自らの居城である和田城にて今一戦と考え、敵中を押し通り和田城目指して落ちていった。
同じく南ノ原口で戦っていた佐竹勢も常陸を目指して落ちて行ったが殿をつとめた川井久忠、茅根通正、石井新蔵人忠盈らが討ち死にした。
雨呼口で戦っていた岩城勢も植田隆堅は既に討ち死にし、残りの勢は岩城を目指して落ちていったが、竹貫尚忠は栗谷沢まで来た所で追撃してきた伊達勢に「前を行くは竹貫城主竹貫三河守のご子息とお見受けするが何処までお逃げになるか」と呼び止められ、敵中にとって返し二騎を切って落とすが終いには討ち死にを遂げたという。
このような状況のなか八幡崎館の将兵のみは本城が落ちた後も最後の一人まで踏みとどまって戦い、ついに玉砕したという。
この様子は「伊達家治家記録」にも「本城落居して後までその役所を守り戦死する事、実に希代の事なりと人皆嘆美す」と記述されている。
落城したのは開戦より九時間後の申下刻(午後五時)である。翌日焼け落ちた城中には馬上侍三百騎、足軽・雑兵を含めると二千余の遺骸が残されていたという。
時を移さず一気に和田城を葬ろうと、伊達政宗以下の伊達勢が須田盛秀を追撃して和田城に押し寄せたが、兵馬ともに疲れ直ちに攻め掛かることもできず、翌朝より城攻めを開始することとし一旦兵を須賀川の北にある野山に引いた。
和田城に立ち返った須田盛秀は生き残った将兵を集めてみたが、あまりに小勢なのでこれでは籠城することは叶わないと考え、その夜のうちに和田城を自焼して佐竹領であった赤館(棚倉城の前身)を目指して落ちていった。
この乱戦のなか初陣であった須田盛秀の嫡男須田秀広とその妹が敵兵に生け捕りにされた。須田秀広は敵将の嫡男ということで伊達政宗の面前に引き出され柱に結わえられ、伊達政宗自らの手による鉄砲で撃ち殺された。
妹は一命を助けられ、その後の伊達家と佐竹家の人質交換の際に須田家に返された。大黒石口の守将塩田政繁は落城後石川郡内に隠れていたが、石川昭光に捕らえられ伊達政宗の命で斬首されたという。
このようにたった一日の戦いで須賀川城が落城し数百年の間この地にあった戦国大名二階堂氏もあっけなく滅亡してしまった。
その後須賀川城は伊達政宗に臣従した石川昭光に預けられ、城代として矢吹薩摩守光頼が入り降参した二階堂旧臣はその与力とされた。