東部衆と西部衆について
二階堂氏の家臣は、その所領が岩瀬郡の東部にあるか西部にあるかで、それぞれ東部衆、西部衆と呼ばれた。その境は阿武隈川の支流釈迦堂川であるとされている。古文書の中には、岩瀬郡西方之衆という表現で書かれているものもある。西部衆には、二階堂氏の一門・一族あるいは旗本などの家臣が多く、東部衆には須田氏・矢部氏・塩田氏・前田川氏などの大身の家臣が多いのが特徴である。天正十七年(1589)十月、伊達政宗が須賀川城を攻めたとき、西部衆の多くが伊達政宗に従い東部衆の多くが抗戦したという書き方をする書籍を見かけるが、それは的を射た表現ではないと思う。伊達政宗に従った武将の中には、確かに西部衆の保土原氏・浜尾氏・守屋氏・木之崎氏・越久氏が含まれるが、西部衆の中でも矢田野氏・横田氏・大久保氏・泉田氏・小川氏・古川氏・鈴木氏・飯土用氏・大賀氏など多くの武将は須賀川城に籠城し、あるいは自らの居城にて抗戦している。また須賀川落城後、大里城に籠城した武将の多くは西部衆であったという事実を忘れてはいけないと思う。一方、東部衆のうち矢部氏は伊達政宗に従った一人である。
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