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物語
ナポレオン
の時代

       Part 3 セント・ヘレナ

   
第4章 倦怠と絶望   

   7.アーヘン会議

 1818年9月下旬から、ドイツの温泉地アーヘンで国際会議がひらかれた。
 1815年のベルギー戦争(ワーテルローの戦いも含まれる)の後始末をどうつけるか。
 それを話し合う会議だった。
 参加国はイギリス・プロイセン・オーストリア・ロシアの戦勝4カ国と、敗戦国のフランス。

 ヨーロッパに戻ったラス・カーズやグルゴーからこの会議について知らされていたナポレオンは、その成り行きに多大の関心を抱いていた。
 会議で自分の処遇に関しても議論されるだろう、と期待をこめて予想したからである。

 アーヘン会議で決まったのは、主として以下のようなことである。
 フランスに駐留している占領軍は撤退する。
 フランスへの賠償金は軽減される。
 戦勝4大国の同盟にフランスもこれ以後加わる。
 要するに、ルイ18世のフランス政府にとっては良いことずくめだった。
 ナポレオンに関してはどうか?
 議論らしい議論もなされず、現状を維持することが確認され、引き続きイギリスに監視の任を委ねることが承認された。

 ナポレオンはさまざまなルートを用いて会議のメンバーに水面下での働きかけをしてきたはずである。
 しかしイギリスのカスルレー大臣やバサースト大臣には、そもそも慈悲や寛容を求める訴えに耳を貸す気などまったくなかった。
 その上、ロシア代表団のポッゾ・ディ・ボルゴがとくに発言を求めて、ナポレオンの扱いは現在のままでよいと述べたことが効果的だった。
 ポッゾ・ディ・ボルゴは、名前から分かるように、ロシア人ではない。
 コルシカ生まれで、ナポレオンより5歳年長。
 若いときからボナパルト一族と政治的に対立してきた男である。
 ナポレオンが権力を握るとフランスを去り、活躍の場を求めてロシアに行きアレクサンドル1世に仕えた。
 そしていまこのアーヘン会議で積年の恨みをはらしたかたちである。

 いずれにせよ、ヨーロッパに戻りたいというナポレオンの願望はついえた。
 死ぬまでセント・ヘレナという名の牢獄につながれることが確実になったのである。

                                                  続く