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物語
ナポレオン
の時代

       Part 2  百日天下

   
第7章 ナポリ王ミュラ 

   6.任務の放棄

 ナポリ王になったからといって、ミュラはこの国の統治に専念できたわけでない。
 ナポレオンにしてみれば、この義弟は騎兵隊の指揮官として貴重な存在だった。
 ここというときに兵士たちを奮起させるのが巧みなのである。
 だから、騎兵部隊の活躍が必要になれば遠慮なく戦場に呼びつけた。

 ミュラは、ベルクとクレーヴの大公の身分で、イエナの戦いに参加している。
 アイラウの戦いでは、かれの率いる騎兵隊の勇猛果敢な突撃によって、なんとか劣勢を挽回することができた。
 1812年のロシア遠征のときにも、ナポレオンはとうぜんのようにナポリ王を遠征軍に加える。

 この大遠征が無残な失敗に終わったことは既に述べたが、ナポレオンがまだロシア戦線にいるときにパリにクーデタがおきた。
 驚愕したかれは、部下の高官たちの意見を聞いたあと、急いで単身帰国することを決意する。
 遠征軍を離れるに際して、ナポレオンは全軍の指揮権をミュラにあたえた。
 1812年12月5日のことである。

 皇帝がいなくなって1週間もすると、軍の秩序が失われてだらしないのない状態になる。
 ミュラだけに責任があったわけでない。
 敗北した軍を統率するのはつねに至難の業である。
 加えて12月のロシアの寒さは厳しく、食料もない。
 悪条件が重なっていた。
 多数の兵士が毎日のように軍旗の下を離れ、どこかに行ってしまう。
 退却軍は総崩れになった。

 1813年1月13日、ワルシャワ公国のポズナニ(現在のポーランド)に着いたところで、ミュラは「ここで軍を離れてナポリ王国に戻らねばならない」といいだす。
 指揮権はイタリア副王ウジェーヌに委ねられた。
 皇帝に託された指揮権を1ヶ月余で抛擲して、勝手に自国に帰ってしまったのだ。
 そのことを知ったパリのナポレオンは、かんかんになって怒る。
                                   (続く)