断章 帝政期
11.退位
対仏同盟軍は、もう勝ったも同然だと思いはじめていた。
戦場はいまやフランス国内である。
ところがナポレオンみずから率いる軍は勇猛果敢で、シャンパーニュ地方での二つの戦闘で同盟軍を撃破した。
戦術的カンはいまだ衰えず、相当数の新兵を含む部隊で敵と互角以上の戦いをする。
この間もずっと、フランス軍の古参兵の多くはスペイン半島に貼りつけられていた。
ウェルズリー将軍(のちのウェリントン公爵)の指揮するイギリス・スペイン・ポルトガルの連合軍の攻勢を、スルト元帥はなんとかくいとめようとするが、じりじりと後退し続けている。
1814年の2月から3月にかけて、国内のフランス軍は最後の力をふりしぼって奮戦した。
ナポレオンの用兵術も冴えていた。
しかし、戦力の相違はいかんともしがたい。
先をみこした指揮官や上級士官たちのあいだで離反する者が多くなり、3月31日、パリはついに陥落した。
元老院と立法院は、時をおかずに皇帝の廃位を宣言する。
タレーランを首班とする臨時政府ができた。
パリの南のフォンテーヌブローに落ちのびていたナポレオンは、なお戦意旺盛であり、パリを奪還するための方策を考えていた。
が、幕僚たちが反対する。
ネイをはじめとする元帥たちが協力をこばみ、逆に退位することを勧めたのだ。
マルモン元帥は勝手に投降してしまった。
追い詰められたナポレオンは、同盟軍が出してきた条件――エルバ島の統治権とフランス政府からの年金支給――を受け入れざるをえない。
1814年4月6日、退位宣言にサインした。
その数日後に自殺を試みるが、用意してあった毒薬が古くなっていたらしく、激しい嘔吐のあとで、一命はとりとめる
。
それから1週間して、ナポレオンは流謫の地エルバ島に赴くためにフォンテーヌブローを離れ、馬車で南仏に向かう。
(続く)