断章 帝政期
1.ベートーヴェンの怒り
「第一統領」」と「皇帝」のあいだには、大きな隔たりがある。
第一統領は共和政府の首脳のひとりであり、公職のひとつ。
皇帝は帝国の君主であり、唯一の存在である。
ベートーヴェンは第一統領ボナパルトを尊敬し、この英雄に捧げるために第3シンフォニーを作曲していた。
ところが、皇帝になったと聞いて失望し、怒り、楽譜を床にたたきつけたという。
この有名なエピソードが本当にあったことかどうか、それはわからない。
しかし、よく知られている逸話というのは、かりに事実でないとしても、ある種の「真実」を語っていることが多い。
ベートーヴェンと同じように、多くの人間が失望し、怒った。
それは、ボナパルトが皇帝になり、ナポレオンと呼ばれるようになったとき、越えてはいけない線を越えたように見えたからだ。
当の本人が、そのことをある程度は自覚していたようである。
それでも状況をみきわめつつ足を踏み出した。
政界でボナパルトが皇帝になることを望んだ有力者は、けっして少なくない。
タレーラン、フーシェ、カンバセレス、レドレール、フォンターヌなどである。
第一統領は国民のあいだで、とりわけ一般庶民のあいだで人気があったし、軍隊でも下級士官や兵士たちの人望をあつめていた。
革命後の混乱と無政府状態を経験し、それにこりて、フランスに必要なのは腕力のある実力者だと判断した者もあるだろう。
強いリーダーシップをもつ男に従うことに、心の安らぎを覚える者もいるだろう。
利害得失を計算したうえで、自分にとってはプラスになると踏んだ者もいるだろう。
そのようなさまざまな人間たちに後押しされて、1802年ごろから1804年にかけて、ボナパルトは第一統領と皇帝をへだてるボーダーラインにすこしずつ近づいて行った。
最後の一歩を踏みこませたものはなにか。
権力への渇望である。
絶大で不動の権力。
それがどうしても欲しかったのだろう。
(続く)