断章 帝政期
10.厭戦ムード
ロシア遠征は大きなしくじりであり、ナポレオンの不敗神話に亀裂が入った。
勝ち誇るロシア軍はポーランドに侵入し、ワルシャワ大公国を占領する。
オーストリアとプロイセンも、いまや「フランス軍恐れるにたらず」と考え、参戦の機会をうかがっている。
ライン連邦諸国でも、独立への民族意識が高まっている。
南のスペインでは、イギリス軍がすこしずつ優勢になってきている。
こうした状況下で、プロイセンがフランスに宣戦布告してきた。
1813年3月、新たに徴兵・編成した軍をひきいて出陣したナポレオンは、バウツェンで勝利をおさめ、休戦条約を結んだ。
が、これは時間かせぎにすぎない。
休戦期間中に、オーストリアとスウェーデンが敵側に加わった。
この時期になると、ヨーロッパの主要国の多くがフランスに戦いを挑んでくる。
ナポレオンはこの年8月のドレスデンの戦いに勝ちはしたが、部下の将軍たちのひきいる軍団は各地で敗北していた。
10月にライプチッヒでおこなわれた戦いは、「諸国民の戦い」と呼ばれる大会戦であったが、フランス軍は決定的な敗北を喫した。
こうした一連の戦闘中に、フリウール公爵デュロックが戦死した。
ナポレオンがもっとも信頼していた部下のひとりである。
イストリー公爵ベシエールも倒れた。かけがえのない騎兵隊指揮官である。
デュロックやベシエールは無言のままこときれたが、1809年エスリングの戦いで死んだモンテベロ公爵ランヌは、息をひきとるまえに叫んだ。
「ボナパルトの畜生のために、おれたちみんながくたばるのか!」
グラン・サン・ベルナール峠を部隊とともに最初に越えた勇将ランヌ。
かれの最期の言葉は、多くの高級士官の胸に去来する感情を代弁している。
際限もなくつづく戦争に、この頃ではナポレオンの古参の部下ですらウンザリしていたのだ。
(続く)