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物語
ナポレオン
の時代

       Part 3 セント・ヘレナ

   
第2章 ロングウッド 

   8.「ブオナパルテ将軍」という呼び名

 ロングウッドにはしばしばプランテーション・ハウスから文書が届けられる。
 それらの文書で、ナポレオンはつねに「ブオナパルテ将軍」と呼ばれていて、これが悶着の種になった。
 

 たしかに、ブオナパルテはナポレオンの戸籍上の姓であり、いわば本名である。
 しかし、Buonaparte は綴りも発音もコルシカ(あるいはイタリア)を連想させる。
 だからこそナポレオンはフランス永住を決めたときから、Bonaparte と改姓したのである。
 ところが、ブオナパルテという姓をことあるごとに引き合いに出して、ナポレオンが生粋のフランス人でないことをほのめかす者が昔から多かった。
 王党派や政敵などである。
 
 というわけで、ここが微妙なところであるが、ナポレオンは本名で呼ばれることが好きでなかった。
 それだけでない。
 たんに「将軍」と呼ばれることは、「皇帝」の肩書きを否定されることになる。
 セント・ヘレナ島では随員や召使いはもちろんナポレオンを皇帝と呼んでいた。
 しかるに、プランテーション・ハウスから届く文書では「将軍」という呼称しか用いられない。

 考えてみれば、ナポレオンが権力を掌握していたときでも、イギリスはそうだった。
 第一統領時代のかれが、イギリス国王ジョージ3世に書簡を送って和平を呼びかけたことがある。
 戻ってきたのは、国王からでなく、外相グレンヴィルからの返信であり、「再興されたブルボン王家以外に、われわれの交渉相手はいない」という、そっけないものだった。
 言い換えれば、イギリス政府はナポレオンを正当なフランスの元首として認めていなかった。
 それから数年後の戴冠式にも、ヨーロッパの多くの国が大使を参列させて、ナポレオンの帝位を承認した。
 イギリスは、フランスと戦争状態にあったこともあり、戴冠式そのものを無視した。

 ナポレオンの立場からすれば、フランス国民の総意により皇帝になった自らの資格が否認されることはとうてい容認できない。
 だから自分を「皇帝」と呼ぶべきだと、執拗にプランテーション・ハウスに抗議し続けた。
                                                     (次章に続く)                                                      
 コルシカ人の名前は、すでに登場したチプリアーニのように、母音で終わるイタリア風のものが多いようです。
 チプリアーニが一時は仕えたこともあるサリチェッティー。
 コルシカ独立運動の指導者として有名なパオリ。  
 ナポレオン終生の仇役、ポッツォ・ディ・ボルゴのように。
 ちなみに、ナポレオンの戸籍上の姓名はナポレオーネ・ブオナパルテです