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物語
ナポレオン
の時代

       Part 3 セント・ヘレナ

   
第6章 死因   

   2.毒殺説(2) 毛髪の砒素含有量

 ナポレオンが砒素で謀殺されたというフォシュフーヴドの仮説は、その後の5年間仮説のまま留まり続けた。
 ところが1960年、イエーテボリーの図書館でたまたま読んだある研究報告に、スウェーデンの歯科医はその証明方法を見いだした。
 グラスゴー大学のハミルトン・スミス教授が、髪の毛に放射線を当てることで砒素の正確な含有量を測定できる、と、その報告書で述べていたからである。

 多くの君主と同様に、ナポレオンも親しい人間に形見として自分の毛髪を与える習慣があった。
 それゆえ、フランスのどこかに今も遺髪が残っている可能性は高い、とフォシュフーヴドは考えた。
 ただちにパリに行き、アンヴァリッドの軍事博物館に連絡をとったかれは、理由を説明したうえで、ナポレオンの遺髪を一本もらえないかと頼みこんだ。
 幸運にも博物館にはナポレオンの死の翌日に切りとられた一房の髪が保管されていたし、そのうえ学芸員は好意的だった。
 こうしてフォシュフーヴドは首尾良く遺髪の一本を入手することができたのである。

 そのあとスミス教授に連絡し自己紹介したスウェーデン人歯科医は、だれのものかを告げずに毛髪をグラスゴー大学に送り、砒素含有量を測定してもらった。
 結果は3週間後に郵送されてきて、ナポレオンの髪の毛に通常の13倍の砒素が含まれていることが分かった。

 翌・1961年、フォシュフーヴドはイギリスの科学雑誌『ネーチャー』にこの分析結果を論文として発表し、同時にフランス語でも『ナポレオンは毒殺されたのか』という題で小冊子を刊行する。
 反響は大きかった。
 とくにフランスの専門家からは、たとえ由来が確かでも、わずか一本の毛髪を分析した結果など信用できない。
 また、かりに結果が正しいとしても、それは汚染によるものかも知れない、という反論がなされた。

 前向きの反応もあって、遺髪の所有者のなかで新しい試料の提供を申し出る者もいた。
 ふたたびスミス教授により分析がなされ、ほぼ同じ結果がでる。
 13センチの長さの毛髪を5ミリ幅に刻んで測定したところ、砒素量に変化が見られ、一定量ずつが平均して含まれているわけでないことも判明した。
 これは、ナポレオンが死に至らぬ程度ではあっても、かなりの量の砒素を何回かにわたって与えられていたことを意味する。

 では、一定期間ときどき間をおいて砒素を盛った人間はだれなのか?

                                    続く

 砒素は無色・無味・無臭で、古くから毒として用いられ、「毒薬の王様」と呼ばれてきました。
 17世紀にブランヴィリエ侯爵夫人が砒素で家族を毒殺したのは、フランスでは有名は事件でした。
 20世紀の作家モーリヤックの小説『テレーズ・デスケルー』でも、同名のヒロインが夫に微量の砒素を長いあいだ与え続けることが物語りの核心になっています。