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物語
ナポレオン
の時代

       Part 3 セント・ヘレナ

   
第1章 上陸 

   8.ベッツイ・バルコーム

 夕食のあとで、ラス・カーズは母屋に行って来客がいないことを確かめてくる。
 それからナポレオンが出かけて行って、バルコーム家の
団らんに加わる。
  多くの場合、一家のあるじは長椅子に横たわり、痛風の足をスツールにのせていた。
 夫人と二人の娘がそのまわりに腰かけおしゃべりをしたり、歌をうたったりしている。

 姉娘のジェーンはおとなしかったが、妹のエリザベス(ベッツイ)は陽気で活発だった。
 ベッツイは噂に聞いていた「コルシカの人食い鬼」をしげしげと観察する。
 「ナポレオンの顔は死人のように蒼白かったのです」と、かの女は後になって回想している。
 「でも、その冷たさと平静さに加えてなにかしら厳しいところがあり、わたしにはたいへん美しいと感じられました。  ナポレオンが話をはじめると、その魅力的な微笑となめらかな動作で、それまでわたしが抱いていた恐怖心はすっかり消えました」  

 ナポレオンのほうでも、ものおじせずに自分を見つめる14歳のイギリス娘を気に入ったようである。
 ベッツイの女友だちが名高い「おそろしく邪悪な男」をひと目みたいと訪ねてきたときには、かれは髪をバラバラに乱し、しかめっ面をつくり、うなり声をあげておどかそうとした。
 女友だちは悲鳴を残して逃げさったが、お転婆なベッツイのほうはケロリとして笑っている。

 ナポレオンはこんな話題を選ぶこともあった。
 「フランスの首府はどこだろう?」
 「パリです」  
 「ロシアの首府は?」  
 「サンクト・ペテルブルグ。以前はモスクワだったけれど‥‥」
 「モスクワを焼いたのはだれだろう?  
 「わかりません」  
 ナポレオンは声をあげて笑った。
 「いや、いや、きみは知っている。モスクワを焼いたのは、このわたしだ」  

 熱帯では、夜の訪れるのが早い。
 暗闇から聞こえてくるのは、滝の音とコオロギの鳴き声だけである。
 監視のイギリス兵二人は、その暗闇のなかで、ブライヤーズ荘に近づきすぎぬように気をくばりながら、遅くまで巡回していた。

       続く

 この時代には、映画もありませんし、テレビやパソコンなどもちろん存在しません。
 日が暮れてから寝るまで、人びとはなにをしていたのでしょうか?
 会話をする。楽器の演奏や歌を聞いて楽しむ。本の朗読に耳を傾ける。トランプに興ずる。
 およそ、こんなところでしょう。
 いわゆる「団らん」です。