Part 1 第一統領ボナパルト
第2章 マレンゴの戦い
10.誤報
6月20日に、ということは勝利のニュースが公式に届く二日まえのことになるが、「フランス軍敗れる」という情報がパリに流れた。
もちろん誤報である。
苦戦しているときに、早まって伝えられたのか?
メラス将軍がウィーンに走らせた急使から漏れたのか?
その翌日には、ボナパルト戦死の流言までが首都をと飛びかった。
これはドゥセとの混同かもしれない。
「オーストリア軍勝つ」の虚報は、どうやらパリだけでなく、ヨーロッパの他の都市をもかけめぐったようである。
プッチーニのオペラ『トスカ』は、物語が1800年6月17日から18日にかけてのローマに設定されている。日付に注目いただきたい。
この歌劇では「負けた」とはじめ伝えられたボナパルトが、じつはそうでなく、起死回生の勝利をおさめることがストーリイ展開の鍵になっている。
ローマは、マレンゴから500キロ以上離れているが、同じイタリア国内である。
戦闘の終わった3日後に正確な情報が届いたというわけ。
現実のパリでは、第一統領が戦死したという誤報が流れると、『トスカ』のような悲劇でなく、安手の喜劇が演じられた。
統領政府には第一統領だけでなく、第二統領も、第三統領もいる。
とはいえ、カンバセレスやルブランがボナパルトの後釜にすわれると考えた人はいない。
タレーランやフーシェのような野心家は、それぞれの思惑を胸にひめつつ、ただちに後継者を探しはじめた。
カルノ、ベルナドット、ラファイエットなどの名前がとりざたされる。
無難な線として、第一統領の兄弟のジョゼフやリュシヤンを推す者もいた。
このふたりはまんざらでもないとう顔をしてみせたので、後日それを知ったボナパルトの不興をかう。
6月22日午前11時。「フランス軍勝つ」と「第一統領は無事」のニュースがパリに届く。
鬼のいぬ間の「陰謀」は、太陽に照らされた雪のように、たちまち消滅した。 (続く)