物語
ナポレオン
の時代
ストコー軍医が最初にナポレオンを診て瀉血をほどこしたのは、1819年1月16日の夜である。
翌17日から20日にかけて、軍医は毎日一度ロングウッドに来てナポレオンの治療に当たった。
5日間に5回往診したことになる。
この精勤ぶりが猜疑心のつよいロウ総督を警戒させる。
オマーラ軍医のように、ストコーもナポレオンに懐柔されてしまったのか?
ロウだけでなく、プラムピン提督(マルコーム提督の後任)も同じ疑念を抱いた。
召喚と口論があり、ロウ総督とプラムピン提督から疑いの目で見られたストコー軍医は立腹し、ただちに休暇を申請して帰国してしまう。
ナポレオンの健康を管理する医師がまたもやいなくなった。
ちょうどこの頃ローマでは、かねてベルトラン将軍から依頼されていた医師の人選がようやく終わったところであった。
フェシュ枢機卿のお眼鏡にかなったのは、フランチェスコ・アントンマルキというコルシカ出身の30歳の男。
他にも候補者(エルバ島でナポレオンの主治医だったフランス人医師など)はいたのだが、フェシュ枢機卿はあえてフィレンツェ大学の若い解剖学助手アントンマルキを選んだ。
コルシカ出身ということもあろうが、支払うべき報酬が安いというのが決めてになったようである。
義理の甥の生命にかかわる重要な問題で、枢機卿は金を出し惜しんだのか?
じつはフェシュとその異父姉であるレティツィアは、この時期、あるオーストリアの女透視者の影響下にあった。
その女透視者(あるいは女占い師)から「皇帝は天使たちによってセント・ヘレナ島からすでに連れ去られ、ある場所ですこやかかに生きておられます」と告げられ、その言葉をうのみにした。
もはやセント・ヘレナ島にいないのであれば、だれを派遣してもよいわけで、ふたりは形ばかりの人選をした。
200年近い昔のこととはいえ、信じがたい話である。
(続く)
ジョゼフ・フェシュはナポレオンのおかげで39歳にして大司教に、ついで枢機卿に、さらにローマ駐在フランス大使になりました。
義理の甥には、大恩があったわけです。
甥が没落すると、かれはローマに暮らすようになり、迷信すれすれの神秘主義にのめりこみました。
フェシュの信頼した女透視者というのは、一説によれば、オーストリア宮廷の女スパイでした。