物語
ナポレオン
の時代
ベルトラン将軍はフェシュ枢機卿に医師を見つけてほしいと要請したとき、聖職者の派遣も依頼し、かつ召使いも補充したいと申し入れてあった。
聖職者はロングウッドでおこなう宗教儀式のために、召使いは急死したチプリアーニと離島したルパージュの代わりとして必要だった。
1819年2月中旬、医師アントンマルキとふたりの神父がローマを出発した。
途中でフランス人の召使いたちが合流して、一行5名は英仏海峡を渡る。
かれらはイギリスに着くと、植民地省に出航許可を求め、それがおりるまでロンドンに滞在した。
そのころロングウッドでは、モントロン夫人アルビーヌ健康上の理由で島を離れようとしていた。
イギリス人軍医ヴァーリングの診断では、肝臓が悪くなっているので転地療法が必要だという。
そのような理由であれば、認めぬわけにいかない。
ナポレオンは、3人の子どもを連れて長い旅をするのだからと、モントロン伯爵に妻とともに帰国するよう勧めた。
しかしモントロンはここででお仕えしますと言いはり、島にとどまることを選ぶ。
アルビーヌを乗せた馬車が、7月1日、ロングウッドを離れるとき、ナポレオンは居室のカーテンの端をそっとずらして見送っていた。
門に出て、おおっぴらに見送るのをはばかったのである。
従僕のマルシャンによれば、この時期のナポレオンの健康は小康状態にあったらしい。
「みんながそのことを喜んでおります」といわれたとき、ナポレオンはこう答えた。
「いや、わたしは長くは生きられない。ここだ」
そういいながら、かれの右手が押さえていたのは肝臓のあたりである。
1819年9月20日、フェシュ枢機卿の選んだ5名がようやく島に到着する。
ローマを発ってから、じつに7ヶ月たっていた。
(続く)
5名がはるばる携えて行ったトランクのひとつには、新聞・雑誌・書物がつまってました。
書物の一冊の頁の間にモロッコ革の紙入れが挿入されていて、中にローマ王(ナポレオンの息子)の肖像画が入ってました。
ウジェーヌ公が気をきかせて送ってくれたものです。
食い入るようにその細密画を見ていたナポレオンの目にやがて涙がにじんできた、と従僕のマルシャンが伝えています。