Part 2 百日天下
第11章 ワーテルロー(下)
5.敗因
ナポレオンは数多くの戦争をしたが、なかでも有名なのはワーテルローの戦いである。
この戦いに、かれは敗れた。
戦えば勝つ軍事的天才が、めったにないことだが、ワーテルローでは一敗地にまみれた。
そしてこの敗北が、皮肉にも歴史のページに大文字で残った。
ナポレオンは戦うまえに「われわれには90パーセントの勝算がある」と、語っていた。
楽勝のはずだったのである。
それなのになぜ負けたのか?
衆目の見るところ、プロイセン軍を戦場から隔離できなかったことが最大の敗因である。
フランス軍による度重なる猛攻を、イギリス軍と多国籍混成軍だけでは最後までもちこたえることはできなかっただろう。
そもそもナポレオンが戦前に立てた作戦でも、ウェリントン軍とブリュッヘル軍を分断して各個撃破することになっていた。
というのも、前者はベルギーに集結した段階で約10万、後者は約12万。
それに対してフランス軍は約12万
(もっとも「カトル・ブラの戦い」と「リニーの戦い」の結果、ワーテルローの戦いのまえに兵力はそれぞれもっと少なくなっていた)。
いかにナポレオンの天才をもってしても、数的に倍近い敵を相手に勝つのは無理である。
ちなみにウェリントンはナポレオンの存在を「4万人の援軍に匹敵する」と高く評価していた。
相手の守りの穴を驚異的な注意深さで見抜き、すばやくそこを突いてくる危険な指揮官と見なしていたのである。
プロイセン軍の戦場への到着がフランス軍にとって致命的であったのなら、プロイセン軍を追跡し包囲攻撃するように命じられたのに、その任務に失敗したグルーシー元帥が敗北の最大の責任者なのか?
ナポレオンは後日「グルーシーは道に迷った」と非難している。
あるイギリスの歴史家は「グルーシーは地図が読めなかったので、迷子になった」と書いた。
しかし、本当にそうなのか?
(続く)