本文へスキップ

物語
ナポレオン
の時代

       Part 2  百日天下

   
第11章 ワーテルロー(下) 

  6. 免責

 グルーシー元帥がプロイセン軍の追撃を命じられたのは、ワーテルローの戦いの前日(6月17日)午前11時であった。
 さらにその前日の6月16日のリニーの戦いに敗れたブリュッヘル将軍の軍勢が戦場か退却したのは、夕刻から夜の初めにかけて。
 ということは、グルーシーは12時間から14時間遅れで追跡を開始したのだ。

 しかも敵は算を乱して逃げ出したわけでなく、目的をもって整然と撤退したのである。
 これだけの時間差があれば、追う者のハンディキャップは相当に大きい。
 ナポレオンもスルトも、敵は東方のリエージュあるいはナミュールに落ちのびると予想し、その方向に追うようグルーシーに指示した。
 ところがプロイセン軍が移動したのは、北方のワーヴルに向けてである。
 追跡軍はある時点でそれに気づき、進路を北に転じている。
 進む速度は緩慢であったかも知れないがが、グルーシーは道に迷ったわけでない。

 問題にすべきは、ワーテルローの戦いの当日正午まえ、西方に砲声を聞いたたときの行動であろう。
 部下のジェラール将軍から「砲声の方角に進撃すべきです。それが戦争の鉄則でしょう」と、つめよられたこと。
 それに対してグルーシーが、「そちらに向かっても、戦闘が続いているあいだに着けるかどうか疑問だ」と答え、その進言をはねつけたこと。
 この拒否回答は、フランスでは(とりわけナポレオン贔屓のあいだでは)長いあいだ逃げ口上と思われてきた。
 グルーシーの戦意の乏しさと優柔不断が、ワーテルローの勝敗の帰趨を決めたとまでいわれてきた。

 近年の戦史家は、この批判に疑問を呈しはじめている。
 このときグルーシーの指揮する追跡軍は、モン・サンジャンの戦場から東に約19キロ離れた場所にいた。
 前日の大雨で道の状態は悪く、途中にはかなり大きな川もある。
 追跡軍は砲兵隊を含む33、000の大軍であり、戦場に到着するには少なくとも10時間はかかると見るのが妥当である。
 途中でプロイセン軍が妨害してくるであろうから、それに対応する時間も計算に入れなければならない。
 要するに、戦闘が続いてる間にモン・サンジャン着ける可能姓はほとんどなかった、と戦史家たちは判断するようになったのだ。
          (続く