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物語
ナポレオン
の時代

       Part 2  百日天下

   
第11章 ワーテルロー(下)
 
   7.怠慢と手抜き

 最近の研究によれば、グルーシーの追跡軍が砲声を聞いてすぐに戦場に向けて進軍しても、戦闘中にモン・サンジャンに着ける可能性はほとんどなかった。
 してみれば、グルーシーに落ち度はない。
 つまり敗戦の責任者ではない。

 むしろ問題にされるべきは、参謀長
スルトの出した命令の内容やその伝達の仕方であろう。
 会戦前夜の6月17日夜11時、スルトはグルーシーに至急報を送り、「プロイセン軍はワーヴル方面にいるらしいので、その方向に進め」と指示した。
 この命令書は届かなかった。
 騎馬将校をひとりしか派遣しなかったからである。
 その将校は敵軍に捕えられたか、闇にまぎれて戦場から逃げ出したのか、いずれにせよ行方不明になった。
 参謀長がベルチエであれば、すくなくとも5名、おそらく10名ぐらいの士官を、時間とコースをずらして送り出していただろう。

 スルトの2度目の命令は、会戦当日の6月18日午前10時に出されたが、それが届いたのは午後の3時半。
 戦場から遠く離れた場所では、なにをするにしても遅すぎる時間だった。

 まえにも述べたが、この日の朝食時にスルトはナポレオンに当をえた提案をした。
 「グルーシー軍の一部を呼び戻してはどうでしょうか」と。
 「その必要はない」と一蹴されると、あっさりと引き下がって、それ以上なにもしていない。
 夜になって戦闘がほぼ終わり、ナポレオンが自殺的行為にでようとするのを制止するときまで、スルト参謀長の存在感は希薄であった。
 いてもいなくても同じだったのである。

 戦場でナポレオンの出す命令は簡略なものであり、参謀長はその意図をくみとり具体的な指示におきかえなければならない。
 スルトはそうしたことに慣れていないし、性格的にも細かい気配りはできない男である。
 たとえば、カトル・ブラの戦いで、ナポレオンが総司令官ネーにだした命令の内容を、第1軍団のドルエ・デルロン将軍や第2軍団のレイユ将軍に同時に伝達するのを怠っている。
 その結果連携上のくいちがいが生まれ、勝てる戦いであったのにみすみすふいにした。
 これはほんの一例にすぎない。

                続く