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物語
ナポレオン
の時代

       Part 3 セント・ヘレナ

   
第4章 倦怠と絶望   

  6.チプリアーニの急死


 グルゴーがロングウッドを立ち去り、ヨーロッパへの船便を待ちながらジェームズタウンに滞在していた時期に、チプリアーニが急死した。
 2月26日の夕食の席で、いつものように給仕長の制服に身を固め、配膳の指図をはじめたとき、とつぜん下腹部の激痛におそわれる。
 身をよじって苦しがり、床にくずれ落ちる。
 自室に戻ることもできなちほどの急激な発作だった。
 すぐに医師が呼ばれたが、診断がつかず首をひねるばかり。
 翌・27日の午後4時ごろ、チプリアーニは母親と妻の名を呼びながらこと切れた。

 遺体はプランテーション・ハウスの墓地に埋葬され、その費用1391フランはナポレオンが支払う。
 葬式にはベルトラン、モントロンとフランス人召使いの全員。
 それにイギリス側からリード中佐やオマーラ医師などが参列した。
 死因は腹膜炎とも急性虫垂炎ともいわれるが、明確なことはわからない。
 一説によればチプリアーニは大酒飲みであり、日頃の不摂生から腸がボロボロになっていたのだという。
 毒殺されたという説もあり、むしろこの方が有力である。

 まえにも述べたが、チプリアーニはナポレオンの腹心の部下であり、かねて秘密工作活動に従事してきた。
 ど同時に、ロングウッド内部の情報も真偽とりまぜてプランテーション・ハウスに流していたらしい。
 いってみれば、二重スパイである。
 それは危険な綱渡りで、足を踏み外せばたいへんなことになる。
 長くこのような仕事をしてきたコルシカ男は、自信と慣れから野放図になったのかもしれない。

 もし邪魔になって消されたのであれば、墓をあばいて検証すれば分かるこどである。
 ところが奇妙なことに、チプリアーニの墓はいつのまにか消滅していた。
 今に至るも「謎の死」といわれるゆえんである。

                         続く

 「墓がなくなった」と書いているのは、ジルベール・マルチノーという著述家です。
 マルチノーは風変わりな人物で、人生のなかばでセント・ヘレナ島に移り住み、長く世間と没交渉の人生を送りました。
 ナポレオン研究者というよりも、セント・ヘレナ島のスペシャリストです。
 著述家としての代表作は『ナポレオン時代におけるセント・ヘレナ島の日常生活』。