物語
ナポレオン
の時代
ロングウッドに移ってまもなく、ラス・カーズは『セント・ヘレナのメモリアル』にこう書いた。
「止むことのない風、ときに荒々しく、いつも同じ方向から吹いてくる風が、台地の表面をたえず
掃いている。
雲がほとんどいつも覆いかぶさっていて、太陽はまれにしか顔を出さないが、それでも大気に作用
して、注意して身を守らないと肝臓をやられてしまう」
それから3ヶ月ほどしたある日の記述。
「天気がずっと悪くて、外に出られなかった。
雨と湿気が安普請の住居に入り込んできて、だれもが身体の不調を感じている。
ここの気温はなるほど温暖だが、風土は不健康きわまりない」
この8年後に出版されることになる『セント・ヘレナのメモリアル』でこのくだりを読んだフランスの読者は「イギリス政府は皇帝のためにそんなひどい場所を選んだのか!」と憤慨したことだろう。
しかし現代イギリスの歴史家(たとえばポール・ジョンソン)は、セント・ヘレナが健康に悪い島だとは考えていない。
むしろ住みやすい場所だと判断している。
ラス・カーズとポール・ジョンソンの意見はまっこうから対立するが、どちらが正しいのか?
結論からいえば、両方が正しい。
というのも、ロングウッド台地の気候はとくべつで、島の他の部分とは違うのである。
島の主都ジェームズタウンとその周辺は、熱帯性の気候で、温暖で乾燥している。
ところがロングウッドには強風が吹き、夏以外の季節には雨と霧が多く、それにともない湿度が高い。 その上、気温の上がり下がりが大きい。
降雨量についていえば、フランスで雨の多いことで知られるブルターニュ半島よりも多く降る。
ナポレオンと随員たちをもっとも悩ませたのは、冬期の湿気のひどさだった。
建物の構造や建材のせいもあったが、とにかく湿度が高い。
衣服やカーテンそれに皮革製品に、白く薄いカビがびっしりと張りついてしまう。
火を燃やして空気を乾燥させても、ほとんど効果がなかった。
(続く)
ラス・カーズはある事情(詳細はいずれ述べます)で他の随員より早く島を離れました。
帰国してから数年後に、それまで書きためておいた日記に『セント・ヘレナのメモリアル』という題をつけて世に問います。
この本はたちまち評判になり、現代の言葉でいえば「ベストセラー」になりました。
いくども版を重ね、ヨーロッパの各国語に翻訳もされました。
いわゆる「ナポレオン伝説」がつくられる上で、この書物は多大の貢献をしたのです。