ボナパルトが一日も早く西部地方の内乱を鎮定させようとしたのは、他にも理由がある。
オーストリアと戦争をはじめる矢先だったのだ。
18世紀の後半から19世紀の初頭にかけて、ヨーロッパ外交を仕切るメジャー・リーグに入っていたのは、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセン、そしてフランス。
その最初の3つが、この1800年にフランスの敵国であり、「対仏大同盟」を結成していた(ほかのメンバーはナポリとトルコ)。
イギリスとの間には海峡があり、いますぐ攻め込んでくることはない。
問題はハプスブルク帝国のオーストリアであった。
この国との関係は、王妃マリー・アントワネットのことがあって、ささくれたっていた。
マリー・アントワネットはマリア・テレジアの娘であり、革命の起きた1789年の時点でのオーストリア皇帝ヨーゼフ2世の妹である。
そうした背景もあって、ヴェルサイユの宮廷関係者は、革命が勃発すると国王一家を国外に脱出させようとした。
初めのうち、ルイ16世はそれを拒んでいた。
しかし、しだいに脱出計画に興味を示すようになる。
その計画というのは、つぎのようなもの。
馬車でパリを抜け出し、まっすぐ北に向かう。
途中で王党派の軍隊と落ち合い、国境を越えてベルギーに入る。
ベルギーは、王妃の実家ハプスブルク帝国の支配下にある国だった。
そこで王党派の軍隊とオーストリア軍に守られてパリにとって返し、国会を解散する。
国王としての主導権をとりもどすのだ。
1791年6月20日の深夜、国王一家はチュイルリー宮殿を暗闇にまぎれて出た。
その24時間後、国境まであと50キロというところで、馬車がとめられた。
見破られ、逮捕された。
国外逃亡に失敗したのだ。(続く)
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