Part 1 第一統領ボナパルト
第2章 マレンゴの戦い
2.マリー・アントワネット
国境近くで逮捕され、パリに連れ戻された国王一家に対して、パリっ子が向ける視線は冷たかった。
「なんたることだ! 国王は外国の力をかりてフランスに攻め入ろうとしたのか!」
とりわけ王妃マリー・アントワネットに非難の声があびせられ、「オーストリア女め!」と、さげすまれた。
この国王一家の脱出劇とその失敗が、革命のその後の行方に与えた影響は大きい。
「王政を廃止せよ」という声が、フランス全土から沸きあがった。
そこに、オーストリア皇帝とプロイセン国王が出した「ピルニッツの共同宣言」が伝わる。
「ヨーロッパのすべての君主はフランス国王の運命に関心があり、場合によっては必要な兵力で迅速な行動に移るであろう」というもの。
フランス国民はこれにつよく反撥した。
武力で威嚇されたと感じたし、外国によって革命がつぶされると思ったのである。
やがて革命政府はオーストリアに宣戦布告し、事態は急ピッチで悪化する。
国王一家はタンプル塔に幽閉され、議会では「王政の廃止」が宣言された。
ルイ16世は国民を裏切ったかどで裁判にかけられ、まず「有罪」と宣告される。
つぎにどんな刑を科すべきかについて投票がおこなわれ、死刑に決まる。
王が処刑されたのは、1793年1月。
ルイ16世が断頭台で処刑されたことに、ヨーロッパ各国は驚愕した。
マリー・アントワネットも、ルイ16世と同じように、ギロチンで生命を絶たれた。
まだ38歳の若さだった。
その知らせは、かの女の母国オーストリアで衝撃をもって受けとめられた。
皇帝フランツ2世はフランスに対して嫌悪と憎悪の念を抱く
(続く)