物語
ナポレオン
の時代
総督府にはロウを補佐する者がいて、トーマス・リードという名の陸軍中佐である。
この副総督格の男が反ナポレオン感情の持ち主だった。
ロウが新たに打ち出した諸方針のなかには、リード中佐の助言によるものもあった。
監視態勢のさらなる強化。
こまごまとした「締め付け」等々。
具体的には、ナポレオンに面会を求める者は、事前に総督の了承をえなければならない。
ナポレオン宛にヨーロッパから送られてくる品物は、すべて総督府が点検し、「皇帝ナポレオンへ」といった献辞のある書物などは没収する、等々。
5月中旬に、インド総督夫人が島に立ち寄ったとき、プランテーション・ハウスで歓迎パーティが催された。
総督府は招待状をロングウッドに招待状を送ってきたのだが、、宛名がまたも「ブオナパルテ将軍」になっていて、それを見たナポレオンはもちろん欠席する。
こうした細部が積み重なった、総督ロウとロングウッドとの歯車のかみ合わせはさらに悪くなっていく。
6月になって、フランス・オーストリア・ロシアの各国委員が島に到着した。
昨年8月に締結された「パリ協定」にもとづき派遣された監視委員たちである。
監視委員といっても、ナポレオンの拘置についてなんらかの権限や責任を有するわけでない。
いってみれば、名目だけの見張り人である。
フランスの委員はモンシューニュ侯爵。
オーストリアの委員はステュルマー男爵。
ロシア委員はバルマン伯爵。
プロイセンは口実を設けて委員を派遣してこない。
ロウ総督これらの委員の来島を告げ、その応接を求めた。
ナポレオンの返答は以下のようなものである。
「パリ協定なるものは関知しないので、委員の公的資格を認めることはできない。
したがって会見もしない。
ただし、私人として会うことはかまわないので、ベルトラン将軍に申し出てほしい」
そっけなく断ったわけであるが、あとになって後悔したようである。
オーストリアやロシアの委員を介して、フランツ2世やアレクサンドル1世との個人的なつながりを復活させられるかも知れない、と希望的観測を抱いたのである。
(続く)