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物語
ナポレオン
の時代

     エピローグ 19年後

   2.遺骸護送船団の出帆

 内務大臣の提案は、翌6月、行事関連予算が200万フランから100万フランに減額されたものの、議会で可決された。
 すぐに遺骸護送船団が、フリゲート艦とコルヴェット艦が一隻ずつと小帆船で編成されることに決まった。

 ナポレオンと島の生活をともにした随員・召使いで生存している者は、政府からこの航海に招かれる。
 かれらは三々五々船団の出帆する
トゥーロン港にやってきた。

 まず、ベルトラン将軍。
 67歳になっており、代議院議員の身分である。
 妻のファニーは4年まえに没し、23歳になる息子アルチュールが父親に同行していた。  
 ラス・カーズは来ない。
 74歳の高齢で、ほとんど視力を失っており、代わりに息子のエマニュエル男爵が参加した。
 二十数年まえに父親を助けてナポレオンの口述を筆記・清書した若者もいまや40歳。
 ベルトランと同じく代議院議員である。

 グルゴー将軍も到着した。
 57歳のいまも怒りっぽく、すぐに口論をはじめる。
 しかし、軍隊ではこの性格で損をすることもないらしく、復職したあとは順調に出世して要職についている。
 ここにいるべき人間で最後まで姿を見せなかったのは、モントロン将軍である。
 ナポレオンが残した多額の遺産金で事業をおこしたかれは、失敗・破産して、ギリスに逃げた。
 債権者の待つフランスに戻ることはできない。  

 召使いたちの参加者は比較的に多かった。
 マルシャンはもちろん来ている。
 主君の遺志を尊重して近衛隊将軍の娘と結婚したかれは、潤沢な遺贈金のおかげで、パリで安楽かつ堅実な暮らしをしていた。
 それから、サン・ドニとノヴェラス。
 ふたりとも50代前半で元気である。
 ピエロンとアルシャンボーもやってきた。かれらの年齢は不詳である。

 結局、ロングウッドでナポレオンと生活をともにした人間でこの遠征に加わったのは、以上の9名だった。
 オマーラ医師は4年まえに他界したし、アントンマルキ医師は2年まえキューバで黄熱病にかかり客死している。

 1840年7月6日の夜、フリゲート艦ベルプール号ほか2隻の遺骸護送船団は、トゥーロン港を出帆した。
                                                                (続く

 トゥーロンはマルセイユとカンヌのあいだに位置する都市です。
 若きボナパルトはこの軍港で、イギリス・スペイン艦隊を攻撃して勝利を収め、それをキッカケに出世街道をばく進しました。
 いってみれば、トゥーロンはかれの名を世に知らしめた場所。
 信長にとっての桶狭間のようなものです。
 ティエール政府はそれをじゅうぶんに意識して、ここを遺骸護送船団の出発港に決めたのでしょう