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物語
ナポレオン
の時代

     エピローグ 19年後

  3.発掘された遺体

 7月6日夜にトゥーロン港を発ったベルプール号がセント・ヘレナ島に着いたのは、10月8日だった。
 3ヶ月かかっている。
 当時ヨーロッパからこの島までは船で1ヶ月半から2ヶ月であったから、かなり
ゆっくりと航海したことがわかる
 ちなみに、1815年にノーサダンバランド号がナポレオンと随員などを運んだときには、67日で着いていた。
 すなわち2ヶ月強である。

 島に上陸したフランス人一行は、10月15日の朝、ゼラニウムの谷に赴いた。
 ナポレオンの墓所の蓋が開けられ、イギリス軍士官による指揮で、島の労働者たちが4重の重い柩を地上に引き上げる。
 それを12名の無帽のイギリス兵が肩に担ぎ、しつらえてあるテントの中に運び入れた。
 4つの棺の覆いがつぎつぎに外される。
 派遣団の実質的な責任者というべき国王代理ロアン・シャボは以下のように証言している。

 「遺体が姿を現した。
 ベルトラン将軍が思わず身を乗り出したので、あたかも皇帝の腕の中に飛び込むように見えた。
 何人かの者はひきつったような嗚咽をもらし、他の者はおし黙ったままであったが、すべての人間が涙ぐんでいる。
 白いガーゼが皇帝の顔と身体を覆っていた。
 死後に生えた髭のせいで、顎は青みがかっている。
 顎の形そのものは変わっておらず、ナポレオン特有の相貌が保たれていた。
 口はなかば開かれており、真っ白な3本の歯がのぞいていた。  
 生前きわめて美しかった両手はそっくりそのままで、皮膚の色は生きている者のようであった」  

 また、派遣団付きの司祭コクローは、こう書いている。
 「墓も棺も見なかった人が、ガーゼごしにベッドの皇帝を見たら、間違いなく考えるだろう。
 皇帝は静かに休息されていると」

 だれもが、骸骨を目にすると覚悟していたのに、生身のナポレオンに再会したような感覚を抱いたのである。
                                                                  (続く

 七月王政政府は、パリでおこなわれる儀式が12月になるようにスケジュールを組みました。
 ベルプール号などの遺骸護送船団はそカレンダーに合わせて航海したのです。
 なぜ12月なのか?  
 政府は国民のあいだに根強いナポレオン人気を利用したかった。
 とはいえ、盛り上がりすぎて、民衆が反政府的な暴動などに走るのは困ります。
 11月ころまでは暖かい日もあり、人びとが戸外にくりだしやすい。
 でも12月になれば肌寒くなるし、騒ぎを起こすような機会もへるだろう。
 そう読んだのです