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物語
ナポレオン
の時代

     エピローグ 19年後

   4.遺骸のパリ帰還

 コクロー司祭は、遺体が大気に触れなかったから良い状態で残ってると判断した。

   フォシュフーヴドやルネ・モーリのとらえ方はまったく違う。
 博物館では標本の保存に砒素を使う。
 砒素には生物組織を長く保存するという特性があるからだ。
 鳥や哺乳類の動物、たとえば犬などを剥製にするときにも、砒素が用いられる。
 つまり、ナポレオンは砒素の慢性中毒で死んだために完全に近いかたちで遺体が保存された、と2人は推定しているのだ。
 しかし遺体の発掘に立ち会った人のなかに、ベルプール号の船医も含めて、そうした可能姓に思いをいたす者はいなかった。 

 10月18日に遺骸護送船団はセント・ヘレナ島を発ち、帰国の途につく。
 一行がフランスのシュルブール港に戻ったのは11月30日。
 帰りの航海には1ヶ月半しかかかってない。
   ナポレオンの棺は,船でセーヌ河をさかのぼるべく、蒸気船に移された。
 ル・アーヴルとルーアンを経由して、パリに近いクルブヴォワ港に着岸したのは12月14日である。

 翌・15日は火曜であった。
 ナポレオンの棺は霊柩車に移され、パリに向かう。
 栄誉礼の合図の太鼓がとどろき、礼砲が鳴りひびいた。
 用意された霊柩車は、縦が10メートル、横が5メートル、高さが11メートルという巨大なものである。
 台車は金塗りで紫色のビロード布で覆われ、その布地には蜂の紋章が散りばめられ、真ん中に丸で囲まれたNの文字が配されていた。
 いずれもナポレオンの表象である。
 14体の女神像が盾を頭上にかかげており、その上に棺が載っている。

 この巨大で背の高い霊柩車の後に、旧ナポレオン軍の軍服をまとった老兵士たちが従っていた。
 葬列はエトワール広場の凱旋門(4年まえに完成した)をくぐり、シャンゼリゼ大通りを下ってコンコルド広場まで行き、そこで右に折れて
アンヴァリッドをめざす。

 そう、ナポレオンの遺骸はアンヴァリッドに置かれるのだ。
                                  続く

 アンヴァリッドはフランス語で「戦争で負傷した軍人」の意味です。
 「傷痍軍人」あるいは「廃兵」などと訳されます。
 従って、アンヴァリッドの建物は「廃兵院」。
   建築されたのは17世紀で、傷痍軍人を収容するためでした。
 その後、ここは軍事セレモニーをおこなう場所、軍事上の壮挙を展示する場所になりました。
 現在では軍事博物館、聖ルイ聖堂、ナポレオンの墓などがあって、観光の名所です