物語
ナポレオン
の時代
あれほど執拗に降り続いた雨も、ようやくやんだ。
霧もじきに上がるだろう。
大きな戦争はふつう夜明けにはじまるのに、6時に起きたナポレオンは兵を動かそうとしない。
前日の大雨で地面がぬかるんでおり、大砲が泥濘にはまりこんで動けなくなるのをおそれたのだ。
ナポレオンの戦術は、基本的には主要地点に火器を集中し激しい砲撃をくわえ、敵が弱体化したころに歩兵と騎兵を突進させるというもの。
ところが、「大砲をなんとか移動させられるのは、あと数時間して地面が乾いてからです」と側近のドルオ将軍にいわれたのだ。
大砲なしの戦争は考えられないので、ナポレオンは開戦時刻を遅らせることにする。
とくに苛立ったふうでもない。
8時には、このドルオや参謀長のスルトなどの幕僚と朝食をとりながら、「勝利は90パーセントこちらのものだ」などと語ってる。
スルトが参謀長になったことは、じつは多くの人間を驚かせた。
というのもナポレオンがエルバ島に流されたあと、この軍人はルイ18世の政府で陸軍大臣になったのだから。
すこし前に陸軍大臣を辞したのは、皇帝のもとにはせ参じるためでない。
ジュアン湾に上陸してから破竹の勢いで進軍するナポレオンを、国王軍はまったく迎え撃つこともできなかった。
その結果スルトは陸軍大臣としての責任を問われたのだ。
スルトの軍歴はなるほど立派で、アウステルリッツの戦いでは見事な指揮ぶりを見せた。
しかし、なんといっても最近までブルボン王政の一翼を担った元帥である。
ナポレオンはそれを百も承知の上で、おそらくは多額の報償を約束して自陣に引きこんだ。
軍事的天才と評されるかれは、軍隊内の人事では意外に保守的で、年功序列を尊重した。
スルトが加わったことで、元帥はダヴ−、ネー、グルーシーとあわせて4人である。
この中で参謀長の最適任者はダヴーなのだが、陸軍大臣のポストから外すわけにいかない。
代わりに陸軍大臣の任務をこなせる人間がいないのだ。
ネーは性格的に不向き、グルーシーは最近元帥に昇格したばかり。
スルトはいわば消去法によって参謀長になったのである。
(続く)