物語
ナポレオン
の時代
朝食の席で、スルトは「プロイセン軍を追跡しているグルーシー軍の一部を呼び戻してはいかがでしょうか?」と、ナポレオンに提案している。
なにしろその数は3万3千。仏軍全体のほぼ3分の1にあたる。
これだけの大兵力を今日のイギリス軍との戦いに使えないのは惜しい、とも参謀長は述べた。
返答はにべもなかった。
「きみはスペインでウェリントンに負けたから、やつを買いかぶっている。ウェリントンはくだらぬ将軍だ。イギリス軍はくだらぬ兵隊の寄せ集めだ。こんな戦いは朝飯前だよ」
戦闘のはじまるまえに、これまでもナポレオンは敵の司令官をばかにしたり、敵軍の能力を笑いとばしたりすることがよくあった。
これは幕僚や部下の将軍に自信をあたえ、元気づけるためのパフォーマンスのようなものである。
本心からウェリントン将軍を軽蔑していたかどうかは不明だが、賞賛の言葉を口にしたことがないのは事実である。
ジェロームが心配そうな顔で兄のそばに近寄ってきた。
きのう夜食をとったジュナップの宿屋で、召使いから気になることを聞いたという。
同じ日の昼にウェリントン将軍がその宿屋で食事をしながら、「プロイセン軍がもうすぐ合流するだろう」と、話していたらしいのだ。
ナポレオンは弟の懸念を一笑に付した。
「あのような激戦のあと、プロイセン軍がイギリス軍のところに駆けつけるなんて、あと2日はむりだろう。それにグルーシーが追撃中だ」
気に入らない情報には、耳をかさない。
これが権力者のしばしば陥る罠である。
長年の成功体験で築きあげてきた判断基準があり、それに合致しない情報は無視するか、拒否してしまう。
おととい負けたばかりのプロイセン軍が、そんなに早く戦場に戻ってくることなどありえない。
ナポレオンはそう決めつけていた。
(続く)