Part 1 第一統領ボナパルト
第3章 コンコルダ
13.ようやく妥結
コンサルヴィ枢機卿がパリに到着したのは、1801年6月21日。ローマから3週間もかけて乗り込んできたのだ。
コンコルダの案文は、このときまで、数回書き直されている。そのたびごとに、フランス側のベルニエ神父から、あるいは教皇庁を代表するスピーナ大司教からクレームがついて流れていた。
コンサルヴィが介入したのは、第7次案からである。
ベルニエ神父が作成し、コンサルヴィが修正したものを、今回はボナパルトが拒否した。
それまでは「われ関せず」という態度をとってきたタレーランが、このころから交渉に口をだしはじめる。
まとまりそうだ、と見てとったのであろう。
第8次案、第9次案も、コンサルヴィ、タレーラン、ボナパルトのいずれかが反対してだめだった。
第10次案になって、ようやく三者が首をたてにふった。
コンコルダの調印は、革命記念日の7月14日の前夜におこなわれることが決まる。
ところが、土壇場になって、最終文案の一部が微妙に書き換えられていることが判明した。
一説によればヴァチカン側が(他の情報によればフランス側が)、こっそりと書き改めたのだという。 それに気づいたベルニエ神父(あるいはコンサルヴィ枢機卿)はカンカンになって怒った。
交渉は決裂かと思われた。
しかし、昨年11月からの8ヶ月の積み重ねをいまになって流産させるのは、だれが考えても惜しい。
コンサルヴィとボナパルトによるひざ詰め談判がおこなわれた。
2時間にわたって激しい言葉をぶっつけ合ったあと、両者はなんとか合意に達する。
第13次案で、ようやく妥結したのだ。
7月15日深夜、コンコルダは調印された。
(1)教皇はフランス共和国を承認する。
(2)フランス政府は、カトリック教がフランス人大多数の宗教であることを承認する。
(3)教皇は、教会財産の売却を了承する、等々の内容である。
全体として、フランス側にやや有利な内容であるが、ヴァチカン側としては革命の国フランスにカトリック教を実質的に復活させるために、一定の譲歩をしたのであろう。 (続く)