Part 2 百日天下
第3章 ウィーン会議
9.争いのあとの和睦
1815年3月13日、8カ国代表は共同宣言書に正式に署名した。
その内容は、端的にいうと、ナポレオンを脱獄した囚人として扱っている。
そして「ナポレオンとフランスは別であり、前者と戦うことで後者を救う」と行間で述べている。
宣言文を起草したタレーランがいいたかったのはまさにそのことである。
この老練の外交官は、ルイ18世の軍隊がナポレオンを撃退できるとは限らない、とある時点から考えるようになった。
さもなければ、このような共同宣言をわざわざ出すまでもない。
各国がタレーランの説得に応じて、それまでの口論を忘れたかのように握手したのは、ナポレオンの復権を恐れたからだ。
ふたたびヨーロッパの覇権を握られては困る、と警戒したのである。
ある意味では、ウィーン会議の影の主役はナポレオンだった。
そもそもこの会議は、ヨーロッパをフランス革命とナポレオン戦争以前に戻すために開催されたようなものである。
会議の全体を支配したのは、従って復古主義である。
頭のよいタレーランが、それを「正統主義」のスローガンでおきかえてしまったけれども。
ウィーン会議の精神からいえば、フランスの正統な統治者はナポレオンでなく、ルイ18世である。
ナポレオンがエルバ島から脱出したことで、会議の議事進行はにわかにスピードアップした。
4月から5月にかけて多くの点で合意がなされ、ドイツ問題やナポリ王国の件もなんとかケリがついた。
6月9日に会議は閉幕し、最終議定書が調印される。
オーストリアはドイツ連邦の盟主・中央ヨーロッパの支配者の地位を固めた。
イギリスは7つの海の制海権をえて、会議の最大の受益国になる。
そしてフランスは、敗戦国であるにもかかわらず、大国としての名誉ある地位を守ることができた。
そう考えるなら、ウィーン会議の最大の勝利者はタレーランであったのかもしれない。
(続く)