物語
ナポレオン
の時代
ナポレオンが体調をくずしていたと想定すれば理解できることがいくつかある。
第一に、6月16日のリニーの戦いに勝ったあと、ただちに追撃隊を出せと命じなかったこと。
このルーズさが、6月18日の決定的瞬間にプロイセン軍の戦場への復帰を可能にした。
ナポレオンはリニーの戦勝のあとで、本営に戻ってすくに眠りこんでしまったのだ。
第二に、翌朝グルーシー元帥が本営に出向いて指示を仰いだのに、ぐずぐずしていてなにもいわず、命令を出したのは昼前になってからだったこと。
第三に、ワーテルローの会戦当日ごく短い時間馬に乗っただけで、もっぱら後方の司令部で椅子に座って督戦していたこと。
他方ウェリントン将軍はといえば、この日は6時に起き、愛馬コペンハーゲン号にまたがると16時間以上も乗り続け、自軍陣営の端から端までいくも往復している。
両司令官は同じ1769年生まれなのに、この日の運動量の差は歴然としていた。
ナポレオンにはさまざまな慢性的疾患があった。
痔疾、膀胱炎、胃痛などである。
いかに意志のつよい人間でも、体調がすぐれなければ身体を動かすのがおっくうになり、気力も減じるだろう。
判断力も鈍る。
ここぞという時に決断できず、すべてが投げやりになってしまう。
フランス軍がワーテルローで敗れた理由が論じられるとき、決まってグルーシー、ネー、スルトの責任が指摘される。
しかしこの3人を選んで、その任に当てたのはだれか?
ネーがいつもと明らかに違うのに、最後まで指揮をとらせたのはだれか?
グルーシーに臨機応変の才がないのを知りながら、3万の大軍をあたえて主戦場の外へ送り出してしまったのはだれか?
スルトに不向きな参謀長のポストを割り振り、有能な補佐役をつけることを怠ったのはだれか?
いうまでもなくナポレオンである。
そう、最大敗因はかれの内部にあったのだ。
(次章に続く)