Part 2 百日天下
第7章 ナポリ王ミュラ
3.軍隊のフランコーニ
ミュラが「使える男」だと分かったのは、ヴァンデミエール13日の事件からである。
このときバラスから王党派の叛徒を鎮圧せよと命じられたボナパルトは、砲兵士官らしくすぐに大砲を考えた。
大砲はパリ郊外のサブロン兵営にあるはずで、ボナパルトはその調達を騎兵隊長ジョアシャン・ミュラに命じる。
ミュラは300名ほどの部下を率いてすぐサブロンに行き、敵側兵士の抵抗をなんなく排除し、40門ほどの大砲をパリ市内に運び込んだ。
翌日、ボナパルトはサン・ロック聖堂の付近にそれらの大砲を並べ、王党派の集団に向けて仮借なく砲弾をあびせた。
叛徒はあわをくって退散した。
この事件によって「ヴァンデミエール将軍」と呼ばれて有名になったボナパルトは、翌年に編成されたイタリア遠征軍の総司令官に任ぜられた。
ミュラはその副官のひとりに抜擢される。
イタリア遠征やその後のエジプト遠征で、かれはつねにボナパルトのそばで戦った。
しだいに昇進して師団長になったころには、ミュラの名前は多くの兵士たちに知れ渡っていた。
駝鳥の羽根を軍帽につけ、赤いマントをはおるといった華美な服装で、いつも身を飾っていたからである。
豪胆で知られる指揮官は少なくないが、この騎兵将校は豪胆であるだけでなく、風変わりなまでに派手なかっこうで、いつも敵軍に向かって馬を駆るのである。
ナポレオンはミュラを「軍隊のフランコーニ」と評した。
フランコーニは当時の有名なサーカスの曲馬師で、巧みな馬術とパントマイムで知られる。
「ブリュメールのクーデタ」のときも、ミュラはボナパルトのためにひと働きした。
決定的な瞬間に五百人会議の議場に兵をつれて乗り込み、強硬派議員たちを追い払ったのである。
こうしてミュラは自他ともに許すボナパルトの側近のひとりになっていく。
(続く)