物語
ナポレオン
の時代
遺体解剖から3日後の5月9日、葬儀が執り行われた。
午前10時にヴィニャーリ神父がミサを挙げたあと、11時ごろ葬列がゼラニ ウムの谷に向かう。
ゼラニウムの谷とはハッツゲート近くの木陰の多い渓谷のことで、ナポレオンは島の生活の初期によく馬に乗ってここに来て、休息しながら湧き水を飲んだ。
そして「自分が死んだら、このような場所に埋葬してほしい」と、いくどか口 に した。
その希望が叶えられたのである。
総督の命令で、イギリス軍守備隊兵は喪に服し、道に沿って整列している。
霊柩車は4頭立てで、棺をおおう掛布の前方の左右をマルシャンとベルトランの長男のナポレオンが、後方の左右をモントロンとベルトランがそれぞれ護持している。
続いて馭者のアルシャンボーが故人の愛馬を引き、その後方にサン・ドニ、 ヴェラスなどの召使いが、さらに軽4輪馬車に乗ったベルトラン夫人と幼い子どもたちが従う。
イギリス側からは総督・提督をはじめ、幕僚たちが葬列の後尾に加わった。
ゼラニウムの谷に着くと、あらかじめ掘られてあった広く深い墓穴に、ナポレオンの4重の柩がゆっくりとおろされる。
ヴィニャーリ神父が祈りを唱え、一同は改めて亡き人に別れを告げた。
その数日後に、ナポレオンの最期をみとったフランス人全員に形見分けがあり残った現金が各人に分配された。
5月26日、ベルトラン夫妻、モントロン、マルシャン以下、すべてのフランス人がロングウッドの建物を後にした。
かれらがイギリスの食料運搬船キャメル号に乗ってセント・ヘレナ島を離れたのは、翌・27日である。
思い起こせば、ノーサンバランド号でこの島に来たのは1815年の10月であった。
あれから5年と7ヶ月が過ぎた。
舷側にもたれて遠ざかる島影を見ながら、かれらの胸をさまざまな感慨がよぎったことだろう。
が、19年後にまたこの島を再訪することを予想した者はひとりもいなかった。
(エピローグへ続く)
ナポレオンの遺骸は白いサテンで内張したブリキの棺に寝かされ、その棺全体がマホガニーの柩に入れられました。
さらにそれが鉛の棺に移され、最後に黒檀で裏打ちされた樫の柩に収められました。
4重の柩というわけです。
熱帯の風土を考慮しての措置なのでしょうが、イギリス側が敵国の君主にそれなりの敬意を払ったから、ともいえるでしょう。